とある魔術の禁書目録3 鎌池和馬 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)薔薇のように見目|麗《うるわ》しい姫さま [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから○字下げ] ------------------------------------------------------- [#改ページ] 底本データ 一頁17行 一行42文字 段組1段 [#改ページ] とある魔術の禁書目録3 「不幸だ……」  真夏の夕暮れ。補習帰りにジュースの自動販売機に金を呑まれた|上条当麻《かみじょうとうま》はそう眩いた。 「ちょろっとー。なにやってんの、アンタ?」  カツッと|革靴《ローファ》を鳴らしながら、|御坂美琴《みさかみこと》は上条に声をかけた。 「お姉様?」  その後、美琴に顔形そっくりの御坂妹がやってきた。  三人の出会い。  それが、事件の幕開けだった。  |一方通行《アクセラレータ》と呼ばれる|超能力者《レペル5》が起こす殺戮劇の、幕開けだった——。 [#改ページ] 鎌池和馬 本書の表紙をめくってみてください。あらすじが書いてあります。折り返しという所ですが、その左下の角(新刊ならオビで隠れているかも)にご注目。……何やら切り取り線に囲まれた電撃文庫のマークがありますが、これは一体……? イラスト:|灰村《はいむら》キヨタカ 1973年生まれ。自称「大の映画好ぎ」だったりするのですが、最近はめっきり劇場から足が遠のぎました。そろそろ大スクリーンで映画成分を補給したい……。 [#改ページ]   とある魔術の禁書目録3 [#改ページ]    c o n t e n t s      序 章 レディオノイズ Level2    第一章 イマジンブレイカー Level10(and_More)    第二章 レディオノイズ Level2(Product_Model)    第三章 レールガン Level5    第四章 アクセラレータ Level5(Extend)    終 章 オンリーワン ID_Not_Found [#改ページ]    序 章 レディオノイズ Level2  風が強い。  |宵闇《よいやみ》。ビルの屋上に寝そべるように身を|潜《ひそ》める少女はわずかに目を細める。  その両手にあるのは少女には不釣合いなライフル。いや、不釣合い、どころではないだろう。何せライフルの全長は一八四センチ。少女の身長を軽く|凌駕《りようが》する。  メタルイーターMX。  湾岸戦争では二〇〇〇メートル先の戦車を爆破した伝説を持つ対戦車ライフル『パレットM82A1』。本来、あまりにも強大すぎる反動からフルオート機能は必要ないと言われた対戦車ライフルに、無理矢理連射機能を追加した試作モデルがこの|鋼鉄破り《メタルイーター》だ。  チャチなヘルメットならその反動だけで粉々に砕くほど凶暴なメタルイーターだが、しかし|何故《なぜ》か少女の|華奢《きやしや》な体にはしっくりと|馴染《なじ》んでいる。|衝撃《しようげき》というのは押さえつけるものではなく受け流すものである。少女は|学習装置《テスタメント》を用いて一四日に及ぶ|情報入力《くんれん》の末、メタルイーターの放つ衝撃を演算し、最も効率良く受け流す計算式を導く事に成功していた。  呼吸を殺す少女は、冷たいスコープ越しに六〇〇メートル先の『標的』を眺める。  夏の夜の羽虫を集めるように光を放つコンビニから出てきたのは一五、六歳の少年だ。針金のように細い体、少女のような|繊細《せんさい》な肌に白い髪。|掴《つか》めば折れそうな……という表現に|偽《いつわ》りはないだろう。  その少年は、見る者に鋭いナイフの切っ先をイメージさせる。無理もない、|書庫《バンク》に残された少年の公式戦の戦果は全戦全勝どころか、ただ一度の|掠《かす》り傷も負った事がなく、たった 度の防御や|回避《かいひ》を取った事すらないのだから。  少年の在り方は、相手の刃を受け止める可能性など考えず、ただ敵の肉を|斬《き》る事のみを目的とした細身にして|薄刃《うすば》の、極限まで刀身を|研《と》ぎ|澄《す》ました『鋭さ』そのものだ。  標的の本名を少女は知らない。コードは『|一方通行《アクセラレータ》』。  一大能力開発機関『学園都市』において七人しかいない|超能力者《レペル5》、その中でも『頂点』に立つ少年の名前だった。 (横風が強い、……照準を三クリック左へ修正)  スコープの側面についたネジを回しながら少女は口の中で|咳《つぶや》く。  つまらなそうにコンビニ袋を揺らして帰路に就く少年———それが少女の標的だった。  少女が正面から立ち向かった所で|一方通行《アクセラレータ》には絶対に勝てない。いや、この学園都市、下手をすれば地球上にすら|一方通行《アクセラレータ》に真正面から立ち向かって勝てる相手などいないかもしれない。  だが、逆に言えばそれだけだ。  真正面から勝てないなら、真正面から戦わなければ良い。  結局の所、超能力なんてものは手足を動かすのと変わらない。よほど制御に不慣れな|無能力者《レベル0》でもない限り、チカラの発動はおおよそ二つに分類できる。  一、能力者本人が『チカラを使う』と命じた時。  一、能力者本人が身の危険を感じた時。  ならば話は簡単、相手が『自分の命が|狙《ねら》われている』事すら気づかない内に、|一撃《いちげき》の不意打ちで命を奪ってしまえばどんな能力者にも勝利できる。  遠距離|狙撃《そげき》は元々は学園都市の|風紀委員《ジヤツジメント》が暴走した能力者を|捕縛《ほばく》するための方法だが、あちらはゴム弾で意識を刈り取るのに対して少女は|徹鋼弾《てつこうだん》で心臓を刈り取る。 (ビル風……三方向からの渦、照準を右に一クリック修正)  少女は口の中で|呟《つぶや》きながら、さらにスコープを微調整する。  鉛弾というのは、意外と風に流されるものだ。しかもビルが乱立する場所では風は一方から吹くとは限らない。様々な方向から流れてくるビル風はぶつかり合い、渦を巻き、あらゆる方向へと散っていく。  外す事は許されない。相手は最強の|超能力者《レベル5》、初撃を外して|勘付《かんづ》かれれば、その時点で少女の敗北は決したと言って良い。どれだけ距離が離れていても、どこまで逃げたとしても。  少女は引き金に指をかける。  そこにためらいはない。スコープの先の少年が生きた人間である事も、この引き金を引けば五〇口径の対戦車砲が時速 二〇〇キロで空を裂き、音よりも速く少年の上半身を肉片に変えてしまう事も……それらの事実を正しく理解していても、少女の顔には|微塵《みじん》の迷いもない。  その|華奢《きやしや》な肩に課せられた指示は一つ。  最強の|超能力者《レペル5》『|一方通行《アクセラレータ》』を遠距離狙撃で|破壊《はかい》する事のみ。 (……、)  少女の耳は風の音を聞いていた。ぶつかり合い渦を巻く風の流れが、|刹那《せつな》、一定の方向へと流れていく。  時間にしてわずか二秒弱。けれど確かに複雑なビル風が安定したその|瞬間《しゆんかん》。  少女は引き金を引いた。  花火工場が爆発するような|轟音《ごうおん》と共にいくつもの砲弾が空を裂く。遠距離狙撃では考えられ ない事に、少女はフルオート射撃を行っていた。大の大人すらひっくり返るほどの反動を無理矢理に受け流し、秒間一二発もの砲弾を、針の穴を通す正確さで射出していく。  ものの一秒で空となった弾倉を無視して少女はスコープを通して少年の末路を追っていた。風の流れは一定しているため弾が外れる事はない。放たれた一二発の弾丸は残らず少年の背中に吸い込まれ、その針金のように華奢な体が粉微塵に|弾《はじ》け飛ぶはずだ。 そう、本来ならばそのはずだった。 刹那《せつな》、少女の手にあるメタルイーターが爆発した。  少年に直撃した砲弾が跳ね返った[#「少年に直撃した砲弾が跳ね返った」に傍点]。まるでビデオの|巻《ま》き戻しのように、|綺麗《きれい》に弾道を逆戻りした砲弾は、剣玉みたいにお|行儀《ぎようぎ》良く対戦車ライフルの銃口の中へと飛び込み、そしてメタルイーターを内側から粉々に|破壊《はかい》したのだ。  だが、少女には飛来する弾丸を目で見て確かめるほどの身体能力はない。  彼女に分かるのは対戦車ライフルが何らかの力で破壊された事、その無数と呼べる鋭い破片が全身に突き刺さった事、メタルイーターのストックに押し当てていた右肩が『何か』に貫かれ、|噛《か》み砕かれるように切断された事。  そして、メタルイーターの|狙撃《そげき》を受けて、なお|一方通行《アクセラレータ》は無傷でいられた事。  最後に、この遠距離狙撃は失敗し、|一方通行《アクセラレータ》に|勘付《かんづ》かれた事。  それだけ分かれば十分だった。十分すぎた。頭から熱湯を|被《かぶ》ったような激痛が|襲《おそ》いかかるが少女は気にしない。そんな|暇《ひま》はない。ボロボロの体でビルの非常階段へ向かう。 狙撃に失敗した時点で少女には万に一つの勝ち目もなくなった。|故《ゆえ》にこの敗走は形勢を立て直す|類《たぐい》のものではない。単純に、一秒でも|一瞬《いつしゆん》でも余命を引き伸ばそうという、単なる延命処置でしかない。  |宵闇《よいやみ》に足音は|響《ひび》かない。狩人は音もなく確実に|瀕死《ひんし》の少女との距離を詰めていく。  狩る側と狩られる側。 一瞬にして立場の逆転した殺人劇が幕を開ける。 [#改ページ]    第一章 イマジンブレイカー Level10(and_More)      1  八月二〇日、午後六時一〇分。  真夏の夕暮れ、補習を終えた|上条当麻《かみじようとうま》は一人ぐったりと帰り道を歩いていた。たとえどんな理由があっても、この長い夏休みに一人学校補習へ行くのは精神的によろしくない、と彼は思う。  通常、『夏休みの補習』と呼ばれるモノは夏休みの初日に行われるものだし、実際に上条のクラスも補習は七月一九日から七月二八日にかけて行われた、らしい。  らしい、と|曖昧《あいまい》な表現なのは、上条が|記憶喪失《きおくそうしつ》だからだ。彼には七月二八日以前の記憶がな い。つまり、上条にとっては何だか良く分からない内に自分が補習をサボっていて、そのツケを何だか知らない内に支払わされる事になっていた、という訳である。 で、|何故《なぜ》か。  そんな上条は、路上にポツンと立つジュースの自販機の前で|呆然《ぽうぜん》と立ち尽くしている。 (いや、ちょっと待ってくれ)  そう、少し待って欲しい。上条当麻は確かに二千円札を自販機に|滑《すべ》り込ませた。それなのに、一体どうして自販機は何の反応も見せないのか。まあ、認める。二千円札が今時珍しいのは百も承知だ。しかしそれにしたって二千円だ。二千円もの大金を|呑《の》み込んだままウンともスンとも言わない自販機なんて一体どこの機械帝国が反乱起こしてんだーっ! と上条はお釣りのレバーをガチャガチャ動かしながら心の中で絶叫する。  不幸だ。  しかしここで八つ当たり風味に自販機を揺らしたり|蹴飛《けと》ばしたりすれば間違いなく警報が鳴るに決まっていた。そんな展開は読めていた。  ここは東京西部の未開拓地を一気に切り開いて作り出したアンチオカルトの学園都市だが、それでも上条の姿を見た者は皆こう思う。ああ、何だかんだで『|不幸な人《オカルト》』ってのは確かに実在するんだなー、と。上条はそれぐらい運がないのだった。  そんな、がっくりと肩を落とす上条の後ろから、カツっと|革靴《ローフア》の足音が聞こえた。 「ちょろっとー。自販機の前でボケっと突っ立ってんじゃないわよ。ジュース買わないならどくどく。こちとら一刻でも早く水分補給しないとやってらんないんだから」  と、いきなり後ろから声をかけられたと思ったら、女の子の柔らかい手が上条の腕を|掴《つか》んでぐいぐいと横に押した。曲がりなりにも|上条《かみじよう》は青春している学園都市の男の子だ、|普段《ふだん》なら多少でもドキリとするだろうが今はとにかく|馴《な》れ|馴《な》れしくて暑苦しい。  何だ何だ? と上条が首を巡らせると、中学生ぐらいの女の子がいた。肩まである茶色い髪に、化粧は必要ない程度にデフォルトで整った顔立ち。|半袖《はんそで》の白いブラウスにサマーセーター、灰色のプリーツスカートというのは……確か名門の|常盤台《ときわだい》中学の制服だった気がする。だが目の前の少女をお|嬢様《じようさま》と呼ぶのはどうも気が引けた。少女は夏の暑さにまいっているのか、何か初めて満員電車に揺られたサラリーマンがうんざりしながら駅のホームに降り立ったような、そんな顔をしているからだ。 (……、で。|誰《だれ》だろうこの人?)  顔見知りなのか、それとも馴れ馴れしいだけの赤の他入なのか。|記憶喪失《きおくそうしつ》な上条はちょっと悩んだ。記憶を失った状況で一番困るのは他人と知り合いの線引きだ。どこまで踏み込んで良いのかが分からない。  上条の直感は知り合いだと告げていた。けど、ここまで人見知りしない性格なら多少は『踏み違えた』事を言っても|大丈夫《だいじようぶ》な気がする。えーいテキトーに流しちまえ!、と最終的に上条は考える事を|放棄《ほうき》した。 「……、で。何だコイツ?」 「わったしっにはー、|御坂美琴《みさかみこと》って名前があんのよ! いい加減に覚えろド|馬鹿《ばか》!!」  少女が怒鳴った|瞬間《しゆんかん》、その茶色い前髪から青白い火花がパチンと散った。  ヤバイ冗談通じない人だ!? と上条が思わず身構えた瞬間、少女の額から角が生えるように青白い|雷撃《らいげき》の|槍《やり》が伸び、上条目がけて光の速度で|襲《おそ》いかかった。  目で見て反応していれば絶対に間に合わなかった。だが、上条の体は雷撃が襲いかかる前に条件反射で動いていた。まるで相手の攻撃は何度も何度も受けた事があるので体がクセを覚えていると言わんばかりに。  目の前をよぎる羽虫を振り払うように、上条は|裏拳《うらけん》気味に右手を|横薙《よこな》ぎする。  それだけで一〇億ボルトに達する高圧電流の槍は水の柱のように|弾《はじ》かれ消えてしまう。  |幻想殺し《イマジンブレイカー》。  超能力だの|魔術《まじゆつ》だの、とにかくそれが『異能の力』によるものならば、右手で触れただけで神様の奇跡さえ打ち消す事ができる特殊なチカラ。 「???」  上条は目の前でムスっとしている中学生(改め殺人|未遂《みすい》犯)を眺める。  無意識の内に体が動いて攻撃を|回避《かいひ》する———この現象は前に一度経験した事がある。ステイル=マグヌスとかいう男が放った炎剣を、上条は頭で考えず体に残る条件反射だけで弾いた事があるのだが……。  上条は記憶喪失だ。  しかも頭の『思い出』はなくなっているのに『知識』は残っているという妙な状態にある。  |件《くだん》のステイルの時は、『|記憶《きおく》にはないけど、実は前にも炎剣|攻撃《こうげき》を受けた事がある』から体 が勝手に反応したらしい。 (そうすると、こいつもやっぱり知り合い、か。そうか、知り合いか。ちくしょ!俺《おれ》の周りこんな知り合いばっかかよーっ!) 「なに泣きそうな顔でこっち見てんのよ?」|美琴《みこと》は両手を腰に当て、「とにかく用がないならどけどけ。私はこの自販機にメチャクチャ用があんだから」 「あー、」  |上条《かみじよう》は|御坂《みさか》美琴と名乗った少女と自販機を交互に眺める。  目の前の少女は情状|酌量《しやくりよう》の余地もなく殺人|未遂《みすい》犯な訳だが、かと言って確実にお金を|呑《の》み込むと分かっている自販機の事を教えない、なんて事は許されるのか。いや美琴のがっかりする顔が見たくないというより、その後に確実に|襲《おそ》いかかるであろう殺人級の八つ当たりが|恐《こわ》い。 「その自販機な、どうもお金を呑み込むっぽいぞ」 「知ってるわよ」  と、美琴は一言で答えた。逆に上条の方は美琴の意図が分からない。 「??? 呑み込まれると分かってて金入れんの? なんかの|賓銭箱《さいせんばこ》かこれ?」 「クソ|馬鹿《ばか》。裏技があんのよ、お金入れなくってもジュースが出てくる裏技がね」 「……、」  |嫌《いや》な予感がする。大変嫌な予感がする。その裏技。『裏技』というぐらいだから日常的に何度も何度も使っているんだと思う。繰り返し言うが上条は二千円札を自販機に呑み込まれた。この自販機がそんな誤作動を起こすのは、まさか 「|常盤台《ときわだい》中学内伝、おばーちゃん式ナナメ四五度からの打撃による故障機械再生法!」  ちえいさーっ! というふざけた叫びと共に、あろう事か美琴はスカートのまま自販機の側面に|上段蹴《じようだんげ》りを|叩《たた》き込んでいた。  ズドン!という|轟音《こうおん》。次いで、自販機の中でガタゴトと何かが落下する音が|響《ひび》いて、取り出し口に缶ジュースが出現した。 「ポロっちいからジュース固定してるバネが|緩《ゆる》んでんのよねー。何のジュースが出てくるか選べないのが難点だけど———ってアンタどうしたの?」  何でもないです、と上条は棒読みで答えた。  スカートの下は体操服の短パンだった。何か夢を|壊《こわ》された気分。 「ていうか常盤台中学『内伝』って事は、常盤台のお|嬢様《じようさま》はみんなこんな事やってんのか」 「女子校なんてそんなもんよ。女の子に対して夢見んなよー」 「……、」それはとてもシビアな現実だと上条は思う。「そうではなく。テメェらが毎日毎日寄ってたかってこんな事してっから自販機が壊れちまったんじゃねーのかと問いかけたい!」 「いいじゃんよー。なに怒ってんのよ、別にアンタに実害ある訳じゃないでしょ?」 「……、」 「あん? そういや何でアンタこの自販機が金食い虫だって気づ」言いかけて、|美琴《みこと》はちょっと|黙《だま》った。「……、ひょっとして、|呑《の》まれた?」 「……、」 「え、呑まれた? ホントに呑まれたのー!? こら|拳《こぶし》握ってぷるぷる|震《ふる》えてないで正直に答えなさい、アンタこの自販機にお金呑まれて|呆然《ぼうぜん》としてたって訳!?」 「……答えたらどうしますか?」 「もちろんケータイの写真メール使って間抜けの顔を世界に送信———ってジョーク! ジョーク! じりじりとすり足で間合い測るな|恐《こわ》いから!」  |上条《かみじよう》はため息をついて全身から力を抜いた。  八つ当たりをしても二千円は戻らない。元々あの二千円は|学生寮《がくせいりよう》で上条の帰りを待っている|居候《いそうろう》の白いシスターに花火でも買ってやっかなー、と思って財布に入れていたモノだが、そんな事を考えても仕方がない。負け犬は負け犬らしく帰巣本能にでも従ってろ、と上条は肩を落として美琴から背を向ける。  そんな上条の|煤《すす》けた背中を見て、美琴は両手を腰に当てたまま心底つまらなそうにため息をついた。 「ちょっと待ちなさいよアンタ。んで、一体いくら呑み込まれた訳?」 「……、言わない。言えない、言いたくない」  上条は目の前の少女を見る。出会って間もないけれど、それにしたって目の前の少女に向かって『二千円なくしました』と言って『まあかわいそうに!』という展開には|繋《つな》がらないと思う。『がっはっはわっはっはー』と戦国武将みたいな笑.いが返ってくると考えるのが|妥当《だとう》だ。  と、美琴は(何やら責任らしいものを感じているのか)ちょっと真剣な顔になった。 「笑わない、約束する。ついでに言うなら呑まれたお金は取り返すわよ」  何ですかその親切スキルは! と上条の目がキラキラと輝く。元々、美琴が自販機に|蹴《け》りを入れまくってたからこんな事態になった、という所まで上条の思考は追い着かない。  自販機に二千円もの大金を呑まれた|馬鹿《ばか》、というレッテルを|貼《は》られる事に少し|脅《おび》える上条だったが、美琴の『笑わないって。ホントに笑わないって、ホントのホントに笑わないって!』 という|台詞《せりふ》に負ける形で白状する事にした。 「……、にせんえん」 「二千円? んでそんなハンパな額突っ込んでんのよ?」と言ってから美琴はハタと気づく。 「待て、二千円? ひょっとして二千円札? うわ見たい、超見たい! まだ絶滅してなかったんだ二千円札! くっく、あははははは! そりゃ自販機だってバグるわよ、今時二千円札なんてコンビニのレジん中にも入ってないってば、あっはっはっはっは、ひーっ!」  変な方向にヒートアップしている|美琴《みこと》を見て|上条《かみじよう》は『うそつきーっ!』と叫びながら思わず頭を抱えた。だから二千円札なんて言いたくなかったのだ。自販機で使ったのも両替の意味合いが強い。|完壁《かんぺき》な笑みを浮かべるデパートの店員さんすら|一瞬《いつしゆん》だが確かに『うっ』という顔を する二千円札である。 「ほほう。ではその二千円札が出てくる事を祈って。……千円札が二枚とか出てきたら承知しないわよこのポンコツ」  美琴は自販機の正面に立ち、右手の|掌《てのひら》をゆっくりと硬貨の投入[へ突きつける。  と、上条はふと疑問に思った。 「けどお前、どうやって自販機から金を取り戻すんだ?」 「どうやってって、」  美琴はキョトンとした顔をすると、 「こうやって」 瞬間、美琴の掌から雷じみた青白い火花が飛び出て自販機に|直撃《ちよくげき》した。  ズドン!という|凄《すさ》まじい|轟音《ごうおん》と共に、メチャクチャ重たそうな自販機が|相撲取《すもうと》りに体当たりされたようにグラグラ揺れた。自販機の金具と金具の|隙間《すきま》からもくもくとギャグ漫画みたい に黒い煙が噴き出てくる。  |上条《かみじよう》は青ざめた。上条の顔は真っ青になった。 「あれー? おっかしいわね、あんま強く|「あれー? おっかしいわね、あんま強く|撃《うつ》つもりなかったのに。あ、なんかいっぱいジュース出てきた。ねえ二千円札出てこなかったこれでオッケー?———ってナニ|脇目《わきめ》も振らず逃げてんのよ。おーい」  上条は振り向かない。一センチ一ミリでもあの自販機から遠ざかろうと全力|疾走《しつそう》する。  |常日頃《つねひごろ》から様々な不幸を体験している上条には分かる。一秒先の|未来《オチ》が明確に見える。 (く、くそっ! 何だか知らないけど前にも前にもこんな事があった気がするんですがーっ!)  そんな事を考えた|瞬間《しゆんかん》。  |普段《ふだん》は|蹴飛《けと》ばされても|沈黙《ちんもく》を守り続けた自うに、辺り一面へと力の限りに絶叫した。—————      2  どこをどう走ったかはあんまり覚えていない。  きっと一〇分ぐらいは全力疾走したと上条は断言する。  気がついた時、上条は|繁華街《はんかがい》のバスの停留所のベンチに座っていた。ぐったり脱力しながら夕焼けに染まる八月の空を眺めている。オレンジ一色に染まる空には飛行船が浮かんでいて、飛行船のお|腹《なか》にくっついた|大画面《エキシビジヨン》は、筋ジストロフィーの病理研究を行っていた|水穂《みずほ》機構が業務|撤退《てつたい》を表明しました、と今日の学園都市ニュースをのんびりと垂れ流していた。 「愉快に現実|逃避《とうひ》してないでジュース持ちなさいってば。元々アンタの取り分でしょ?」  と、|隣《となり》に座っている|美琴《みこと》は大量のジュースを上条の方ヘポイポイ投げつけながら、|呆《あき》れたよ うにため息をついた。彼女は彼女でくるくる回る風力発電のプロペラをのんびりと眺めている。 『チカラの制御を間違えた』事で少し落ち込んでいるのかもしれない。 「……、なんかこのジュースを受け取った瞬問に傍観者から共犯者へ成長進化しそうで|恐《こわ》い上条さんですが。っていうかポイポイ投げんな———って|熱《あつ》っ! 何でホットおしるこが混じつてんだ?」 「誤作動|狙《ねら》いなんだからジュースの種類までは選べないのよ」 「この『黒豆サイダー』とか『きなこ練乳』には明らかな悪意を感じるんですが!?」 「ああん? 生ぬるいわねー。『ガラナ青汁』と『いちごおでん』の二大地獄がやってこなかっただけでも美琴さんの強運に感謝しなさいっての」  学園都市とは言い換えると『実験都市』でもある。  無数に存在する大学や研究所などで作られた『商品』の『実地テスト』として、街の至る所には生ゴミの|自動処理《オートメーシヨン》や自律走行する警備ロボットなどの実験品が|浴《あふ》れている。コンビニの棚や自販機に並ぶラインナップも普通の街とは異なる訳だが……。 「……異なる訳だが、やはり学生|達《たち》は同じお金を払って買っているんだという事実が|何故《なぜ》偉い人には分からないのかと問い詰めたい」 「いいじゃんいいじゃん一歩でも前に進もうとする夢と意欲に|溢《あふ》れてて。あ、『ヤシの実サイダー』飲まないんだったらもらうわよ」|美琴《みこと》は|上条《かみじよう》の腕の中から気味の悪いジュースを一本引き抜いて、「大っ体さー、このジュース一本にしてもそうだけど、アンタってば逃げ腰すぎんのよ。なんつーか、ホントは強いくせに自分は弱いと思い込んでバカを見るって感じ? そーゆーの見てると一言モノ申したくなる美琴さんなのよねー」 「……、思いっきり的外れなコト言ってるヤツに限って妙に偉そうなのは何なんだろうな?」 「なにおう?」美琴はタチの悪い酔っ払いみたいな顔で上条を見る。「……、んなに間違った事言ってないと思うんだけど。弱いヤツがびくびくしながら生きるってのはアリだし強いヤツが威張って生きるのも道理だと思うわよ。だけどアンタは違うでしょ? この学園都市でも七人しかいない|超能力者《レペル5》、その一人を軽々とねじ伏せるほどの『力』を持ちながら、一体どうして街のゴロツキだの首輪の外れたチワワだのに追い駆けられて街中を逃げ回ってんのよ?」 「???」  自信満々な美琴の言葉だが、上条には全く身に覚えがない。  そうなると、美琴の|台詞《せりふ》が見当違いなのか、はたまた彼女は上条の知らない過去[#「上条の知らない過去」に傍点]を知っているのか。どちらか判断がつかない上条はとりあえず|曖昧《あいまい》に話を合わせる事にした。 「アンタは、この|超電磁砲《レールガン》の|御坂《みさか》美琴を打ち負かした事をもっと|誇示《こじ》するべきなのよ。そうでなければアンタが打ち負かしたこの私に申し訳が立たない[#「アンタが打ち負かしたこの私に申し訳が立たない」に傍点]。だってそうでしょ? これから私はみんなに一生こう思われるのよ。『あの[#「あの」に傍点]御坂美琴は、あんな街のゴロツキや首輪の取れたチワワに追い回されるような男に負けたのか』ってね」美琴はヤシの実サイダーを口に含み、 「アンタはこの私に勝利した。ならば最低限、勝者としての責任ぐらいは取ってもらわないと困るのねん。この私が、学園都市でも七人しか存在しないこの|超能力者《レペル5》の一人が、私はこんな男に負けたんだそって胸を張って正々堂々と宣言できる程度にはね」 「何だそりゃ? 江戸時代のブシドー精神じゃねーんだから……」  と、言いかけて上条は一連の会話に|違和感《いわかん》を覚えた。  アンタはこの私に勝利した[#「アンタはこの私に勝利した」に傍点]? (という事は何ですかわたくし上条|当麻《とうま》はお|嬢様《じようさま》学校で知られる|常盤台《ときわだい》中学の真性お嬢様の上へ馬乗りになってグーを握ってゴメンなさいもうしませんと泣きが入るまでボコりまくったとそういう事ですかそうですかそんな男は脳細胞が|壊《こわ》れて|記憶《きおく》が|破壊《はかい》されて当然ですねというか記憶がない問に一体ナニをしてたんだかそれと責任を取ってもらわないと困るという言葉はオンナノコが口にすると何やら|不穏《ふおん》な|響《ひび》きがあるのですがーっ!!) 「う、ぅううううぅぅうううううぅぅうううう……」 「? ちょっと、なに|智恵熱《ちえねつ》出してんのよ?」|美琴《みこと》はため息をついて、「しっかしアンタもムカつくわよね。あれどこの少年マンガから引っ張ってきた訳?」  美琴は腕を組んでご立腹です、という感じで息を吐いた。  頭を抱えている|上条《かみじよう》は彼女の様子に気づいていない。 「自分からは決して|殴《なぐ》らず、相手に散々殴らせておいて全弾|完壁《かんぺき》にガードする、なんて手法。キザったらしくてムカつくくせに確かに効果があるってんだから許せないわ」 「……うううううぅ、……う?」  と、頭を抱えて|捻《うな》り続けていた上条は再び美琴の言葉に注目する。  自分からは決して殴っていない? それはつまりムキになって両手をブンブン振り回す子供を笑いながらなだめる親のような、そんな力関係だったのだろうか?  たとえ相手が|電撃《でんげき》使いだったとしても、女の子には決して手を上げなかったと?  ……。  ……。やるじゃない、上条|当麻《とうま》。 「なんか、自信を持ったら持ったで|嫌《いや》なヤツなのよね」美琴はつまらなそうに、「ほれ、もういーからジュースお飲み。美琴センセー直々のプレゼントだなんてウチの後輩だったら卒倒してるのよん」 「卒倒だあ? こんな食品衛生法ギリギリの缶ジュースもらって喜ぶヤツがいるかよ。大体少女マンガじゃねーんだから女子校でレンアイなんざありえねーだろ」 「……、いや。少女マンガ程度なら|可愛《かわい》らしいんだけどね」|何故《なぜ》か美琴は目を|逸《そ》らし、「色々あるんですよー、いろいろ。むしろどろどろ?私が|常盤台《ときわだい》ん中でなんて呼ばれてるか教えてあげよっか? 引いちゃうわよーん」  うふぇへあはー、と美琴は力なく笑っていたが、 「お姉様?」  不意に辺りに|響《ひび》き渡った、鈴のような少女の声に美琴は背中に氷を突っ込まれたような顔をした。ひくり、と口の端が大きく|歪《ゆが》む。 (おねっ? おねえ!!)  ぐっ、と突然の|衝撃《しようげき》に上条の|喉《のど》が詰まった。何だそりゃーっ! と上条が全力で振り返ると、ちょっと離れた所に、美琴と同じ制服を着た中学一年生ぐらいの女の子が立っていた。茶色い髪をツインテールにしたその女の子は、胸の前で両手を組んで目をキラキラさせると、 「まあ、お姉様! まあまあお姉様! 補習なんて似合わない|真似《まね》していると思ったらこのための口実だったんですのね!」  上条は|隣《となり》を見ると、美琴は両手で頭を抱えてうなっていた。何の力もない上条だが、不思議と『ツッコミ禁止』という|美琴《みこと》の心の叫びが伝わってくるような気がした。  美琴は頭痛を押さえるように頭に手をやりながら、|謎《なぞ》少女に向かって話しかける。 「ええっと、念のために聞くけど。『このため』とは『どのため』を言っているのかしら?」 「決まっています。そこの殿方と密会するためでしょう〜」  バチン、と美琴の髪の毛から火花が散った。  が、ツインテールの少女は気にしない。今度は|呆然《ぽうぜん》としている|上条《かみじよう》の方を見ると、にっこり満面の笑みを浮かべて恐るべき速度でベンチへ近づいてきた。うわヤバイこっちきた! と上条が思わずベンチから腰を浮かす前に、少女は強引に上条の手を|掴《つか》んで両手で包み、 「初めまして殿方さん。わたくし、お姉様の『|露払《つゆはら》い』をしている|白井黒子《しらいくろこ》と言いますの」  はあ、と上条は握られた手に視線を向けつつリアクションに困っていると、 「ちなみに、この程度でドギマギしているようでは浮気性の危険性がありましてよ?」  ぶごっ! と上条が噴き出しそうになる。と、|隣《となり》に座っている美琴がゆらりと立ち上がり、 「あー、んー、たー、はー。このヘンテコが私の彼氏に見えんのかあ!」  微妙に人の心を傷つける言葉と共に、美琴の前髪から|雷撃《らいげき》の|槍《やり》が発射される。  が、青白い火花が直撃する寸前に、白井黒子は上条から手を離した。次の|瞬問《しゆんかん》、何の前触れもなくその姿が|虚空《こくう》へ消える。 「ちっ、|空問移動《テレポート》なんぞ使いやがって。変なウワサ流したら承知しないわよちくしょう!」  美琴は何もない空に向かってバンバン雷撃を|撃《う》つ。|超能力《レベル 》クラスのビリビリに道行く人々の視線が集中する。うわもうこれどうやって落ち着かせるんだよ、と上条が一人頭を抱えていると、不意にベンチの後ろから声が飛んできた。 「お姉様?」  またか!っ? と上条は振り返ると、  ベンチの後ろに[#「ベンチの後ろに」に傍点]、もう一人御坂美琴が立っていた[#「もう一人御坂美琴が立っていた」に傍点]。 「は?」  そこに立っていたのは、『|御坂《みさか》美琴』で間違いないと思う。肩まである茶色い髪に整った顔立ち、白い|半袖《はんそで》のブラウスとサマーセーターとプリーツスカート。背格好から服装や小物に至るまで、何もかもが|完壁《かんぺき》な『御坂美琴』がそこに立っている。  だが、  上条はベンチの隣に視線を戻した。肩まである茶色い髪に整った顔立ち、白い半袖のブラウスとサマーセーターとプリーツスカート———当然ながら、そこに座っているのは『御坂美琴』だった。  違うと言えば、ベンチの後ろに立っている少女は水泳ゴーグルのようにおでこの辺りに|暗視《NV》ゴーグルらしきものを引っ掛けている。そして|瞳《ひとみ》に宿る感情の色は一点に集中せず、常に視界に映るモノ|全《すべ》てを追い駆けているような、焦点の|曖昧《あいまい》な瞳がじっと|美琴《みこと》の後頭部を追っている。 「……って、え? 増えてる!? |御坂《みさか》二号!」  |上条《かみじよう》はギョッとした。二人の『御坂美琴』の顔を交互に見る。ベンチの|隣《となり》に座る方は同じくギョッとしたような顔を、ベンチの後ろに立つ方はそんな彼らを見ても無表情のままだ。 「で」上条は後ろを振り返ったまま|呟《つぶや》いた。「どちらさま?」  ベンチの後ろに立つ少女は首を動かさず、目だけを巡らせて上条を見た。 「妹です、とミサカは|間髪入《かんぱつい》れずに答えました」 「……、」  おかしな口調だなあと上条は思ったが口には出さない事にした。上条の周りにはおかしな口調でしゃべる人間が多すぎる。自分もその一人である事に気づいていない上条だったが。 「けど、|御坂《みさか》ナントカで一人称はミサカなの?|御坂《みさか》ミサカじゃねーんだからさ、そこは普通名前の方を使うモンなんじゃねーのか。家ん中でも呼び名がミサカじゃ混乱しない?」 「ミサカの名前はミサカですが、とミサカは即答します」 「……、」  まさか本当にミサカミサカではないだろうが、何か奇妙な不文律があるらしい。  上条は助け舟を求めるように隣に座る美琴の顔を見たが、そこでまたもやギョッとした。美琴 は|何故《なぜ》か|黙《だま》り込んで自分の妹(らしきそっくりさん)を|睨《にら》んでいる。 「そ、そっか妹か。けど似てんなー。身長体重もおんなじレベルじゃねーの?」  |美琴《みこと》はさっきから妹を睨んでいる。 「遺伝子レベルで同質ですから、とミサカは答えます。次いで、女性に向かって体重の話題を振るのは|礼儀《れいぎ》知らずだと心の中で|呟《つぶや》きました」  美琴はさっきからずっと妹を睨んでいる。 「……、」不思議な人だ、と|上条《かみじよう》は思う。「遺伝子レベルって事は双子ちゃんなのね。ふーん、一卵性双生児ってのは初めて見るけど、ここまで似るモンなんだな!。んで、その双子ちゃんが何の用事? 姉ちゃんと帰んの?」  美琴はさっきからずっとずっと妹を睨んでいる。 「|馴《な》れ|馴《な》れしい人だなこの|軽薄《けいはく》野郎、という本音は|呑《の》み込んでミサカは質問に応じます。ミサカを中心とする半径六〇〇メートル以内の領域にて、ミサカと同等のチカラを確認したため気になって様子を見に来たのですが……」  一卵性双生児なら、似たような能力が発現する事は十分に考えられる。  と、考えられるのだが……上条はいい加減に美琴の視線が|恐《こわ》くなってきた。  ヤバイなあコイツ授業参観で家族の顔とか友達に見られるの|嫌《いや》なタイプかなあとか上条は考えているのだが、 「……現場には|壊《こわ》れた自販機、そして大量のジュースを持つあなた|達《たち》。まさかお姉様が|窃盗《せつとう》の片棒を|担《かつ》ぐとは思っていなかった、とミサカは舌打ちします」やっぱり|御坂《みさか》妹は直立不動のまま、コ体いかなる方法でお姉様を|懐柔《かいじゆう》したのですか、とミサカは念のために事情|聴取《ちようしゆ》してみます」  変な疑いをかけられているので会話を続けるしかない。 「おい、主犯はコイツ一人で|俺《おれ》は傍観者だぞ」 「|虚偽《きよぎ》の発言は犯罪に当たります、とミサカは答えます。対象に電子をぶつけ、その反射率から自販機表面を計測した結果、最も新しく付着した指紋はあなたのものである事が判明しました、とミサカは動かぬ証拠を突きつけます」 「ウソっ! んな事まで分かんの|電撃《でんげき》使いって!?」 「ウソです、とミサカは正直に答えます」 「……」 「……」  タスケテクダサイ、と上条は御坂妹を見たまま|隣《となリ》の美琴の肩をチョイチョイと引っ張る。  だが、いつまで|経《た》っても隣にいる美琴は何も告げない。おかしいな、と上条は思った。出会って一〇分程度のものだが、彼女は人が|頼《たの》まなくてもひとりでにしゃべり続けるタイプの人間だという事は良く分かる。その美琴が自分の事を言われて無言を保ち続けるだなんて事がありえるんだろうか? 「……?」  |上条《かみじよう》は何気なく|隣《となり》に座っている|美琴《みこと》の方を見る。と、 「————アンタ! 一体どうしてこんな所でブラブラしてんのよ!!」  いきなり|黙《だま》っていた美琴が、|爆撃《ばくげき》みたいな怒鳴り声をあげた。  うわっ、と上条は横合いいからのつんざくような叫び声に、思わず|仰《の》け|反《ぞ》りそうになる。女の子特有の|甲高《かんだか》い声が耳の穴を突き抜け、何かカキ氷を大量に食べた後のような感覚が頭を|襲《おそ》う。  美琴は一度だけ怒鳴りつけると、また黙り込む。  まるで|御坂《みさか》妹の意見を待つように。  落雷の後のように、空白じみた|静寂《せいじやく》が辺りを包む。  夕空を飛行船が飛んでいた。そのお|腹《なか》にくっついている|大画面《エキシビジヨン》が、新手のウィルス『HDC.Cerberus』がネット上で猛威を振るっています、と今日のニュースを繰り返し伝えている声が妙に|響《ひび》く。  そんな中、御坂妹は直立不動のまま、ぼんやりした視線で美琴の目を見て、 「何かと問われれば、研修中です、とミサカは簡潔に答えます」 「けん、」  美琴は背中を打たれたように息を詰まらせ、それから目を|逸《そ》らした。何かブツブツ|呟《つぶや》いているが、上条の耳まで届かない。 「??? 研修中って、妹さんは|風紀委員《ジヤツジメント》にでも入ったのか?」  学生の身分で『研修』と聞くと、真っ先に思い浮かぶのは『|風紀委員《ジヤツジメント》』だろう。  美琴の力を見れば分かる通り、能力とは下手なナイフより高い殺傷能力を|誇《ほこ》る。二三〇万もの能力者を抱える学園都市では、当然ながら暴走した能力者に対する専門の機関も存在する。  暴走した能力者を抑える役職は二つ。次世代兵器を使う教師陣の『|警備員《アンチスキル》』と、各学校の選出による能力者の『|風紀委員《ジヤツジメント》』だ。 『|警備員《アンチスキル》』も『|風紀委員《ジヤツジメント》』も、元は一般の教師や生徒に過ぎない。従って、彼らがプロを名乗るようになるまでには、九枚の契約書にサインして=二種の適性試験と四ヶ月に及ぶ研修を突破しなければならないのだが。  美琴は顔の前で両手をパン、と合わせると、|何故《なぜ》だか上条の顔からバッチリ目を逸らして、 「ぁ。あー、|風紀委員《ジヤツジメント》? あーあーそれよそれ。そーゆー事だからこーゆ!になっていろい ろ大変でねー、いろいろ。むしろぼろぼろ?」  ステキなぐらい|胡散臭《うさんくさ》い声で言った。 「おい。何だかいきなりオレオレ|詐欺《さぎ》並に情報量が減ってねーかお前のトーク」 「へ、減ってないわよ。ちゃんとくっきりはっきりぼっきり話してるわよ」|美琴《みこと》はそれから自分の妹を見て、「色々積もる話があるから、色々。おい妹、ちょろっとこっちにきてみよーかー?」 「は〜 いえミサカにもスケジュ!ルはあります、と———」 「いいから[#「いいから」に傍点]」美琴は自分の妹の目を見て、「きなさい[#「きなさい」に傍点]」  その妙に|平坦《へいたん》な声が、|上条《かみじよう》には何か気にかかった。  特に美琴が何かをした訳ではない。ただ自分の妹の顔を見て、笑いながら一言告げただけ。だが、その一言。そこに込められた、|得体《えたい》の知れない感情の渦が上条の|芯《しん》を貫いた。  美琴は上条を見た。そこにはもう、ごく普通の|騒《さわ》がしい中学生の顔しかなく、 「んじゃ、私|達《たち》はこっちの道だから。アンタも|寮《りよう》の門限とか気にしなさいよ」  美琴はベンチに座ったままの上条を置き去りにして、自分の妹の肩に自分の腕を回した。全く見分けのつかない二人の少女が広い通りを歩いていく。  上条は思わず美琴の後を追おうとして、やっぱりやめた。  ベンチに腰掛け、夕空に浮かぶ飛行船を眺めながらぼんやりと|呟《つぶや》く。 「複雑な……、」そっと、一息。「……。ご家庭、なのかなあ?」      3  問題なんていくらでもあった。 「そーだよそうそうこの大量のジュースどーすんだよ?」  上条はベンチの上に山積みになっている一九本の缶ジュース(一本、ヤシの実サイダーだけは美琴が消費した)を|呆然《ぼうぜん》と眺めていたが、結局白分の手で持つしか道はない。三五〇×一九だから六・六五キロか|塵《ちり》も積もれば何とやらだなー、と|無駄《むだ》な計算をして上条はさらに落ち込んだ。高所恐怖症の人間がうっかり|吊《つ》り橋の下を|覗《のぞ》いてしまうのと同じ心理状態である。  そんなこんなで赤い夕暮れの中を両腕いっぱいにジュースを抱えてよたよた帰路に就く上条|当麻《と つま》だった。学生寮ばかり並ぶ住宅街の道は細く、車の量も少ないが、こういう所に限って『車来ないだろー』とか思ってると、いきなり車庫からバックで飛び出してきた車のケツに|搬《は》ね飛ばされそうになったりするものだ。  いくら不幸な上条でも、学生寮まで後五分という場所で|櫟《ひ》き殺されて笑っていられるほど不幸慣れはしていない。  お家に帰るまでが遠足です、と上条は気を引き締めてジュースを抱え直す。  冷たいジュースというのはこれでいて長時間手の中にあるとかなり体温を奪っていく。このクソ暑い日本の夏の中、何だって凍傷寸前まで追い詰められなくっちゃならないんだーっ! と|上条《かみじよう》は心の中で嘆いてみる。  と、そこまで考えていた上条は、ふと足元にテニスボールが落ちている事に気づいた。識かが遊んだまま放ったらかしにされているんだろうか、と上条は思う。 「っとっと」  危うくテニスボールを踏んづける所だった上条は、上げた足を止め、ちょっと横にずらして|避《さ》けようとした。危ないなあもうこれ踏んづけてコケたらどうすんだよとか考えていると、  不意に風が吹いた。  コロコロと転がるボールは計ったように、地面と上条の足の|隙間《すきま》へ|滑《すベ》り込む。 「い! ちょっと待てこらーっ!」  すでに体重をかけて下ろそうとしていた足は今さら止められない。見事に全体重をかけてボールを踏んづけた上条は、勢い良く|仰向《あおむ》けに倒れ込む。  大量のジュースのせいでろくに受身も取れない。思いっきり背中を打った上条は、肺から空気を吐き出してその辺をのた打ち回った。不幸だ、と告げるだけの酸素もない。  手の中にあったはずのジュースがガラガラと音を立ててばら|撒《ま》かれたが、上条は大の字になってとりあえず深呼吸した。まあジュースの缶なんて多少へこんでいても構わないだろう、とも思う。 「く、くそ。|俺《おれ》が一体何をしたってんだ……、」  ぜーは⊥言いながら上条はようやく身を起こす。結構な範囲に散らばった一九本のジュースを眺めて絶望的な気分になる。またあの六キロ強の荷物を抱えて歩くのか、と投げ|槍《やり》な気持ちになる上条だったが、かと言って何か打開策がある訳でもない。結局、一人寂しくジュースを回収する以外に道はないのだった。  と、背中を丸めてジュースを拾っている上条の真上に影が落ちる。 (……、雲?)  おや? と上条が思わず視線を上げると、  目の前に|御坂美琴《みさかみこと》が立っていた。 (うお!?)  真上から無言で見下ろしてくる女子中学生の重圧に思わず上条は一歩後ろへ下がりかけた。 「お、前……あれ? さっき妹連れてどっか行かなかったっけ? 何だよ、もっとジュースが欲しいんだったら二、三本ぐらいならやるけど」 「……」  上条の言葉に美琴は返事をしない。  何か変だな、と|上条《かみじよう》は思う。そして、思い出した。|美琴《みこと》につい先ほど|電撃《でんげき》混じりに言われた ばかりである。勝ったからには勝者として最低限の責任を果たせ、と。胸を張って正々堂々とこの男に負けたんだと宣言できるようにしてくれ、と。  それがどうだろう? 当の上条|当麻《とうま》はテニスボールを踏んづけて道路を転がり、抱えたジュースを地面にばら|撒《ま》き、背中を丸めて一人寂しくそれを拾い集めて、さらに。 (ぐぼあ!? 接近しすぎだこの角度からだとヤバいよスカートの中が———っていうかさっきは短パンじゃなかったっけ何でぱんつにクラスチェンジしてるんだ!)  色々と混乱しながらもしっかり見ている時点で|誰《だれ》でも怒ると思う。  美琴はもはや感情すら|失《う》せた|瞳《ひとみ》で上条を見下ろし、 「必要ならば手を貸しますが、とミサカはため息混じりに提案します」 「???」  ため息どころか呼吸さえ怪しいほど物静かな美琴を上条は|一瞬《いつしゆん》不審そうに眺めたが、 その時、ようやく美琴の手に| その時、ようやく美琴の手に|暗視《ス 》「あーなんだ、妹の方か。お前、本「……、美琴、ですか、とミサカは「|他《ほか》に誰がいるんだっつの」相変.わか。道理で短パンからクラスチェン》ゴーグルが引っかかっている事に気づいた。 「あーなんだ、妹の方か。お前、本当に美琴に似てるよな」 「……、美琴、ですか、とミサカは問い返します。ああ、お姉様の事ですか」 「|他《ほか》に誰がいるんだっつの」相変.わらずマイペースだな、と上条は考え、「……、そっか、妹か。道理で短パンからクラスチェンジしてた訳だ」 「短……?」 「いやこっちの話! つ、つーか、そう! そのゴッツイ軍用ゴーグルは何なの?」 「ミサカはお姉様とは異なり電子線や磁力線の流れを目で追う|才能《スキル》がないので、それらを視覚化する|器旦《デバイス》ハが必要なのです、とミサカは|懇切丁寧《こんせつていねい》に説明しました」 「……、」  敬語にすれば何でも丁寧になると思うなよ、と上条は心の中で|呟《つぶや》く。 「気温と湿度が高かったので装備を外していましたが、必要性を感じるならば装着しましょう、とミサカは提案します」  |御坂《みさか》妹は一人でブツブツ言いながらゴーグルをおでこに引っ掛ける。 「ん、あれ? けどお前、さっき姉貴に連れてかれなかったっけ?」 「ミサカはあちらから来ただけですが、と指差します」  御坂妹は通りの向こうを指差す。|何故《なぜ》か全然見当違いの方向だった。 「?」上条は首を|傾《かし》げる。 「それよりも散らばったジュースはどうするのですか、とミサカは問います。このままでは道路交通法に抵触して一五万円以下の罰金を受ける可能性もありますが、とも付け加えます」 「……そりゃ悪かったな。すぐ回収するからどっか行け」  別に御坂妹が|嫌味《いやみ》や皮肉で言っているのではない事は上条にも分かるが、『周りの迷惑だからさっさとやれ』と言われると何となく|痴《かん》に|障《さわ》る。  と、|上条《かみじよう》が無言でジュースの缶を一つずつ拾っていると、 「必要ならばミサカも手を貸しますが、とミサカは進言します」 「あん? 別に良いよ|俺《おれ》がやるし。大体お前が手伝う必要性なんてどこにもねーだろ」  が、その時、タイミング悪く住宅街に軽トラックがやってきた。軽トラックは上条|達《たち》の前で乱暴に|停《と》まると、いかにも|機嫌《きげん》悪そうにプップーとクラクションを鳴らす。 「……、」  |御坂《みさか》妹は無言で道路に散らばるジュースを拾い始めた。自分の|不手際《ふてぎわ》の後始末を見知らぬ女の子に手伝わせる事に少し気が引ける上条だったが、さっきから|急《せ》かすように軽トラックのクラクションがうるさいのでそんな事も言えない。仕方がないので男女平等に半分ずつジュースを回収する事にした。  とはいえ、上条はいたたまれなくなってポツリと言った。 「|悪《わ》りいね。後でなんかコンビニデザート一品|奢《おご》るからそれで|勘弁《かんべん》、——っ!」  そんな事を言っていた上条は、御坂妹の姿を改めて見た|瞬間《しゆんかん》、思わず呼吸が停止した。  無防備にしゃがみ込んだ御坂妹は、特に短いスカートに気を配っていない。両足の合間から何か白と青のシマシマがこっそり|覗《のぞ》いている。  御坂妹はしゃがみ込んだまま、無表情に上条の顔を見上げて、 「……、何か? とミサカは確認を取ります」 「ひ……っ! い、いや。何でもないですよ? 何でもありませんですよ?」 「その割に、|瞳孔《どうこう》の拡大、呼吸の乱れ、脈拍の異常などが検出されていますが、とミサカは客 観的評価を下します。結論として、あなたは|緊張《きんちよう》状態にあるのではないですか? とミサ」 「いや何でも! ホント何でもないです! '本当にすいません!」 「?」  何に対して謝罪しているのですか、という感じで御坂妹はぼんやりと首を|傾《かし》げた。  と、軽トラックが|欝陶《うつとう》しそうにクラクションを鳴らした。上条は|尻《しり》を|叩《たた》かれたように慌ててジュースを拾いに戻る。 ジュースの回収が終わると、軽トラックはいかにも怒ってますという感じで乱暴に発進して行った。ちなみに軽トラックが走り抜ける際、御坂妹の短いスカートがはためいたが彼女はやっぱりスカートを手で押さえようともしない。  なんか、姉妹の区別のつけ方が分かった気がする、と上条はため息をついた。スカートの下に短パンを装備する美琴はこんなに無防備ではないだろう。 「それで、このジュースはどこまで運べば良いのでしょうか、とミサカは両手いっぱいにジュースを抱えて問いかけます」 「あん? いーよこれぐらい俺一人で運べるし」 「それで、このジュースはどこまで運べば良いのでしょうか、とミサカは催促します」 「だから良いって良いってお前が運ぶ義理とかないし」 「早くしなさい」  声が鋭くなった気がした。|上条《かみじよう》は|諦《あきら》めて|御坂《みさか》妹に荷物持ちをしてもらう事にする。  幸い、|学生寮《がくせいりよう》は歩いて五分の所だ。同じカタチのビルが並んでいるだけの殺風景な場所だが、実はビル風が同じ向きに統合されるため学園都市で一番の瓜力発電スポットだったりする。  ビルとビルの間隔はニメートル強。まるで裏路地みたいな|隙間《すきま》に|潜《もぐ》り込み、上条と御坂妹は本当に防犯の役に立ってるのか疑問な入口をくぐって学生寮のエレベーターへと向かう。  と、エレベーターへ向かう上条の前方から清掃ロボットがやってきた。全長八〇センチ、直径四〇センチ程度のドラム缶にタイヤと回転モップがついたような|代物《しろもの》だ。  ここまでなら学園都市では不思議でも何でもない光景だが、ここからが少し違った。清掃ロボットの平たい上部に、一三、四歳ぐらいのメイドさんがちょこんと正座している。 「うーい、上条|当麻《とうま》」  |土御門舞夏《つちみかどまいか》。上条の|隣人《りんじん》・土御門|元春《もとはる》の義理の妹で、|家政《メイド》学校に通っているからメイド服が制服らしい。何か|嫌《いや》な事があると気分転換に女子寮から逃げてくる家出少女らしいが、|記憶《きおく》を失って問もない上条がしょっちゅう遭遇している所を見ると、どうにも日常的に男子寮に潜り込んでいるようだった。 「今日はエアコン|壊《こわ》れたから泊まりに来たー。今晩は兄貴ともども|騒《さわ》がしくなると思うけど|堪忍《かんにん》なー」 「……、つか、家政学校は大変だよな。夏休みねーんだもん」 「む。真のメイドさんに休息はいらないってのがウチの校訓だからなー。土曜も日曜もないのでメイドさん見習いとしてはゲリラ的に週休二日を実行せねば倒れてしまうのだ」 「サボり|癖《ぐせ》のついたメイドさんなんてこの氷河期に需要あんのか?」 「むしろ完成したメイドさんよりある程度未完成なメイドさんの方が需要が高い訳だがー、っと。時に上条当麻。その両手に抱えた戦利品は福引大作戦?」 「ちゃんと実費だぞ(多分)。ちっとばっか汚れ仕事な一品だけど、欲しいんなら一本やる」 「緑茶があればもらっとくー」 「……、|抹茶《まつちや》ミルクが緑茶の一種として認められるなら」  結構、と土御門舞夏は小さな手を伸ばして上条の手の中から抹茶ミルクを引き抜く。と、清掃ロボットの進路が上条|達《たち》から|逸《そ》れた。正座していた舞夏はバイバイするように大きく手を振り、 「最後に、家出少女を|匿《かくま》うコツそのいちー。女の子は昼間っから部屋に置かない。都会なら平時は外をぶらぶらさせておいて夜になったら回収という『|餌付《えづ》け法』が一番楽チンー。二四時間年中無休で部屋に置いておくと生活音が|漏《も》れてあっという間に周りの住人に|勘付《かんづ》かれるかもー。ってかあのシスターは部屋ん中でドタバタ|騒《さわ》ぎすぎだろー?」  正座少女を乗せた清掃ロボットはどこかへ行ってしまった。 「監禁|趣味《しゆみ》があるのですか、とミサカは少々真剣に尋ねてみます」 「真剣になるな。|居候《いそうろう》を|匿《かくま》ってるだけだ」  |上条《かみじよう》はきっぱりと言う。きっぱりと言うのだが……正しく法律的にはどうなんだろう?未成年略取とか何とか呼ばれない事を切に願う上条だった。  横綱が一人乗ったらワイヤーが|千切《ちぎ》れます、という感じのオンボロエレベーターに乗って上条と|御坂《みさか》妹は七階に向かう。  キンコーン、というチャチな電子音と共にエレベーターが七階に到着する。上条の|学生寮《がくせいりよう》の形はまんま長方形なので、エレベーターを出ると直線通路しかない。  その直線通路の先、上条の部屋のドアの前の辺りだけ、金属の手すりが妙に新しくなっていた。どうも|記憶《きおく》を失う前に起きた事らしいので上条には良く分からないが、どっかの|馬鹿《ばか》が炎を使って手すりを吹っ飛ばしたらしかった。良く見ると壁や床も所々が新しくなっている。  と、上条宅のドアの前にインデックスと|姫神秋沙《ひめがみあいさ》が向かい合うようにしゃがみ込んで|三毛猫《みけねこ》 に手を伸ばしてじゃれついていた。二人の間に挟まれた三毛猫は四本の手に|撫《な》で回されて床の上をころころ転がっている。 「……っつか、何やってんだアイツら? おい! どしたん、部屋のカギでもなくして締め出されたのか?」  上条が声をかけると、二人は上条の方を見た。 「あ、とうまだ。ううん、|三毛猫《スフィンクス》にノミがついたから取ってるん———って何!とうまがまた知らない女の人連れてる!」  そんな絶叫をしたのはインデックスという一四、五歳の少女だ。一〇〇%偽名な女の子は、見た目は紅茶のカップみたいな白地に|金刺繍《きんししゆう》の豪勢な修道服に身を包んでいる。どうも、ある世界では『禁書目録』などと呼ばれているらしいが、上条にとっては『知らない間に居候になってた女の子』という何とも微妙な扱いだった。 「もはやそういう星の下に生まれたのかも。それはフラグを立てるように。様々な|人脈《ルート》を構築していく」  のんびりとそんな事を言っているのは姫神秋沙という一六、七歳の少女だ。長い黒髪に|巫女《みこ》装束という標準的な巫女さんスタイルの彼女だが、首から下げたデカい銀の十字架だけが、妙に浮いている。それもそのはず、あれは姫神の持つ『|吸血殺《デイープブラツド》し』という力を封じるために作られた、一つの結界らしいのだ。  と、前にインデックスが十字架についてこんな事を言っていたのを上条は思い出す。 『とうま、とうま。あいさのケルト十字には触れちゃダメなんだよ?あれは「歩く教会」から最低限の結界を保つ部分だけを抽出した十字架なんだから。うん、普通の教会で言うなら、屋根のてっぺんにある十字架だけを持ってきたって感じかな?』 『はあ。じゃ、|俺《おれ》の右手であれに触ると|壊《こわ》れちまう訳か』 『…………………………………………………………………うん。私の修道服の時みたいに』 『は? なに、聞こえないんだけど?』 『何でもないっ! 何にも言ってないし何とも思ってないっ!』  その後、|何故《なぜ》か顔を真っ赤にしたインデックスに八つ当たり気味に頭をがぶがぶ|噛《か》み付かれた|上条《かみじよう》だったが、ようはあの十字架には絶対触るなよ、という事らしい。  ちなみに|姫神《ひめがみ》、その十字架によって力を封じたせいで、私立の|進学《エリート》校から『能無し』と判断され、|退学《くび》を迫られていた。私立の場合、在学条件として『|異能力者《レベル2》以上』とかいうのも珍し くない。スポーツ特待生として入学してきた生徒が|怪我《けが》をして運動できなくなった時の対応を思い浮かべてもらえば、姫神の境遇も理解しやすいだろう。  実際には十字架さえ外せば『|吸血殺し《デイープブラツド》』は再び発現するらしいが、姫神は二度と十字架を外すつもりはないらしい。  そんなこんなで自動的に|学生寮《がくせいりよう》からも追い出される身となった姫神は、かと言って学園都市の外に出てしまうと『|吸血殺し《デイープブラツド》』の力を|狙《ねら》う|魔術師《まじゆつし》に狙われてしまうかもしれない。さてどう したものか、とぶらぶらしていた姫神を、なんと信じられない事に上条の担任の|小萌《こもえ》先生が拾ってきて|居候《いそうろう》の身にしてしまったとか。  この広い街でそう簡単に人と巡り合えるかー、という意見もあるが、実は家出少女が自然と集まるスポットみたいなものが存在するのである。社会心理学、環境心理学、行動心理学、交通心理学などの専門家である小萌先生はこういう所を巡回して非行少女を見つけて保護するのが|趣味《しゆみ》らしかった。この辺りのフラグが良い感じに作用して夏休み明けに|衝撃《しようげき》の転入生イベントが発生しそうで何か|嫌《いや》な予感がする上条である。  と、そんな姫神は上条が抱えているジュースの山をチラリと眺め、 「それで。その宝の山は何? 君。水道水が飲めないモヤシっ子?」 「んな訳ねーだろ。大体ジュースの方が体に悪りいじゃねーか」上条はため息をついて、「ほらインデックス、甘い物はお前担当だろうが」 「む。ジュースは好きだけど『ぶるたぶー』は嫌い。とうま、ジュース開けて」  現代文化に|馴染《なじ》みの|薄《うす》いインデックスは、ジュースのプルタブが開けられないらしい。開け方が分からないとか、力が足りないとかいう話ではなく、『なんか、無理に開けようとすると|爪《つめ》が割れそうで|恐《こわ》い』からだとか。  そんなプルタブ恐怖症のインデックスは上条の横で同じようにジュースを抱えている|御坂《みさか》妹へ視線を向けて、 「はあ。まったくとうまはワケアリ少女との遭遇率が高すぎなんだよ。どうせ|関《かか》わるなって言 っても聞かないと思うし。それで、その子はどこのどなたのなに子ちゃんなの?」 「私的見解としては。|謎《なぞ》組織に追われる|薄幸《はつこう》少女と見た」 「うるさい|黙《だま》れ、人の周りにいる連中を|誰《だれ》でも彼でも勝手に不幸扱いすんな」|上条《かみじよう》はジュースを抱えたまま、「……、それより聞き捨てならねー事言ってなかったか? |三毛猫《みけねこ》にノミがついてるってどういう事?」 「うん」と、インデックスはこっくり|頷《うなず》いて、「ある朝起きたらスフィンクスがノミだらけ。きっととうまの|布団《ふとん》の中とか大変な事になってると思う」 「思うじゃねーよ! テメェ猫とか布団の中に入れてんじゃねえ、ただでさえ抜け毛で大変な事になるんだからっ! っつか何か休のあちこちがカユいなーとか思ってたら原因はそこかーっ!」うわあ、と上条は絶叫する。「てゆーか部屋ん中は放ったらかしか! 増殖したノミの|魔窟《まくつ》んなってんじゃねーのか テメェらそれで外にいたのかちくしょう!」  上条の目の前にはドアノブがあるが、ドアを開ける事がためらわれた。  と、そんな上条などお構いなしにインデックスは|袖《そで》の中に手を突っ込み、何かゴソゴソと探し始めた。 「……ってインデックス、それでお前は何だって|懐《ふところ》から緑の葉っぱとか取り出してんだよ?」 「セージって言うんだよ。案外そこらに生えてるんだけど、知らない?」 「……、」  学園都市の能力開発では薬物使用など基本である。薬に関する知識など歴史年表みたいに頭の中に入っている。  セージ。———シソ科の多年草で地中海地方原産。葉はサルフィア葉と呼んで薬用として用い、また香辛料や観賞用として栽培される事もある……、とこんな所である。 「で、薬草なんか取り出して何すんの? !!?回復のためにもぐもぐ食べるの?」 「えいちびI?」インデックスは首を|傾《かし》げ、「とうまの不思議言語は良く分からないけど、セージには浄化作用があるんだよ。これを使って|魔女学《まじよがく》っぼくノミを追い払う所存です」 「……、大変|嫌《いや》な予感がしてきたんだが。その葉っぱ、猫に食わすのか? ノミに食わすのか?」 「うんにゃ。セージに火を|点《つ》けてスフィンクスを煙で|燃《いぶ》してノミを追い払う」 「………………………………………………………………………………、」 「|流石《さすが》に部屋の中で物を燃やすほど非常識じゃないもん」 「………………………………………………………………………………、」  |上条《かみじよう》は超真剣かつ超純心に|真《ま》っ|直《す》ぐ答えるインデックスの顔を見る。 (いや、ノミだって生き物なんだから煙を嫌うのは分かるけど、分かるけどさあ……)  と、|姫神《ひめがみ》はとんでもなくのんびりとパタパタと手を振ると、 「|黙《だま》っていないで。そこはツッコミ所。このままでは。|三毛猫《みけねこ》の香草蒸しが出来上がる」  姫神の言葉に、深層に|潜《もぐ》りかけた上条の意識が再び浮上してくる。 「……はっ! そうだよそうそう、火災で一番|恐《こわ》いの何だか知ってるかインデックス? 三毛猫を煙に巻いてノミなんか落としてたら|一緒《いつしよ》に猫まで死んじまうわ!」  良かったあ姫神はまともで、と上条が心の底から|安堵《あんど》していると、姫神は姫神で|巫女《みこ》装束の|袖《そで》に手を突っ込んで何かゴソゴソ探している。 「——ってちょっと待て姫神。お前はお前でナニ|袖《そで》から出してんだ?」 「ん? 何と問われれば。魔法のスプレーと答えるしか」  どう見ても殺虫剤にしか見えない。 「———————————————————————、あの。どうするの、それ?」 「魔法のスプレーは。害虫に向けて吹きかけるだけ」 「……、だから、ノミが生き物であるのと同じく猫だって生き物なんだから、ゴキブリを二秒で殺す学園都市の試作品とか持ち出してんじゃねえ! テメェは顔に|蚊《か》が止まってたら迷わず自分の顔に殺虫剤を吹き付けるような人間なんですかー!?」 『?』……という顔をしてお互いの顔を見る二人に、上条は両手が|塞《ふさ》がっていなければ本気で頭を抱えていたと思う。何が|辛《つら》いって、二人して真剣に三毛猫の事を心配しての行動だという辺りが本当に辛い。  と、それまで黙っていた|御坂《みさか》妹が唐突に口を開いた。 「何か論議を交わすならば、まずはジュースを降ろしてからの方が効率的では? とミサカは荷物を抱えながら提案します」 「ん? あーそうだな、床に置いちゃっていいや。悪いね、お礼に一本好きなのやるけど」 「必要ありません、とミサカは返答します。それで、床に置いても構わないのですね、七階という高さがありますので地面へ落とさないよう気をつけてください、とミサカは作業を進めながら警告します」  理路整然とした一流のソムリエじみた|御坂《みさか》妹の動きに、インデックスと|姫神《ひめがみ》の動きがピタリと止まった。何か、|日頃《ひごろ》の自分|達《たち》のトラブルメーカーっぷりと対比して|衝撃《しようげき》を受けているらしい。 「……、うわあ。とうま、とうま。何かウィンザー城の|近衛侍女《クイーンオブオナー》みたいなんだよ」 「……。前時代にあった。メイドロボ計画を|髪髭《ほうふつ》とさせるかも」  そんな二人の言葉にも御坂妹は|眉《まゆ》一つ動かさない。 「それで、その猫についての対処法ですが————」 「うわ、ナイススルー。……じゃなくて、なんか知ってんの?」 「———知っているも何も、素直に市販用のノミ取り薬を使用する事をお|勧《すす》めします、とミサカは助言します。粉状の薬で、猫の体表面に振り掛ける事でノミを落とすタイプのものがあるはずです」 「……。けど、薬だもんな。結局有害っぽくねーか?」  |時間割《カリキユラム》りに薬物投与を組み込んでる学園都市の学生が何を言ってるか、という意見もあるだろうが、この子猫はどう考えても生後]年を満たない。長い年月をかけて薬に対する耐性をつ けた能力者とは『有害』『無害』の基準が違うのだ。  だが、御坂妹は特に気にした様子もなく(いや元々無表情なのだが)、 「この世に有害でない薬など存在しません、とミサカは|間髪入《かんはつい》れずに返答します。ノミの被害と薬の被害なら前者の方が深刻でしょう、とミサカは補足説明します」 「……、」 「ノミやダニなどの害虫被害は単に|皮膚炎《ひふえん》を起こす程度のものではありません、とミサカは追加します。最悪、生命の危機に|関《かか》わるほどの重度のアレルギー体質を作る引き金となる可能性もあります、とミサカは|懸念《けねん》します」  む、と|上条《かみじよう》は|黙《だま》り込む。  まあ確かに|抗生物質《かぜぐすり》の乱用は免疫力の低下に|繋《つな》がると言われたって四〇度の高熱にうなされていれば薬を|呑《の》むしかない。……と、理屈は分かるのだが、床の上をゴロゴロ転がっている|三毛猫《みけねこ》を見るとどうも理屈以外の何かが|納得《なつとく》できない。いやもちろん、あの三毛猫がゴロゴロしているのは一刻も早く体についたノミを落とすための行為なのだが。  何とか薬を使わない方法はあるまいかー、とプチ健康思想に芽生えた上条が腕組みしてうなっていると、不意に御坂妹が言った。 「ようは薬を使わずに猫の体表面からノミを落とせば良いのですね、とミサカは確認します。 無論、煙や殺虫剤を使わないという条件下で」 「……。いや、そこの二人も悪気があってこんな|真似《まね》してる訳じゃねーと思うんだ」 「むしろ悪意がない方が救いようがありません、とミサカは|呆《あき》れ顔で返答します」まったく無表情のまま|御坂《みさか》妹は答え、「とにかくあなたはその二人を監督すべきです、とミサカは警告し ます。一刻も早く彼女|達《たち》を猫から引き離さなければ、今この|瞬間《しゆんかん》にも器物|損壊《そんかい》が適用される ような気がするのですが、とミサカは追加しておきます」 「……、動物の命って、そういや法的には器物扱いだっけ。やだなあ」新しい法律作れば良いのに、と|上条《かみじよう》は半分本気で思う。「それで、話戻すけど。じゃあ煙とか殺虫剤とか、そういうかっ飛んだ意見は当然却下として、御坂妹ならどうやってノミ落とすの?」  びく、とシスターと|巫女《みこ》さんの肩が同時に動く。 「ほう。とうまは私より出会ってすぐの女に|頼《たよ》ると言うんだね、ほほう」 「こうやって。旧キャラはどんどん消えていく仕組み。うふふ。私達って救われない」 「……、」  上条はもう無視する事にした。  引きつった上条の顔を見て、御坂妹は無表情のまま|呟《つぶや》いた。 「重ねて問いますが、ようは殺虫剤や煙を使わない条件下で、なおかつ薬物に頼らずに猫の体表面からノミを落とせば良いのですね、とミサカは最終確認を取ります」 「そりゃそうだけど、どうやって?」 「こうやって、とミサカは即答します」  御坂妹は丸まっている|三毛猫《みけねこ》に向けて|掌《てのひら》をかざす。  瞬間、御坂妹の掌からパチンと静電気が散るような音が|炸裂《さくれつ》した。パラパラと|埃《ほこり》を落とすように三毛猫の毛皮からノミの|死骸《しがい》が落ちる。全身の毛を逆立てたスフィンクスはバタバタと暴れ———七階の空からダイブする直前に|姫神《ひめがみ》に首根っこを|掴《つか》まれた。 「特定周波数により害虫のみを殺害しました、とミサカは報告します。このタイプの|虫除《むしよ》け機械は大手量販店などで普通に市販されているので安全面も支障ないでしょう」  ミサカは一度、ドアの方を眺め、「室内の方は、煙が出るタイプの殺虫剤を使えば簡単に駆除できるかと思います、とミサカは助言を与えておきます」  それでは、用が済みましたら———と御坂妹は感謝の言葉も聞かずに背を向けて立ち去ってしまう。  少女の後ろ姿を視線で追っていたインデックスはやがてポツリと眩いた。 「とうま、とうま。あれこそパーフェクトクールビューティなんだと思う」  もののついでなので、上条もポツリと眩いてみる。 「|無茶《むちや》を承知で注文するけど、お願いだから少しでも見習ってください」 [#改ページ]    第二章 レディオノイズ Level2(Product_Model)      1  次の日も補習だった。  夕暮れの教室の真ん中に一人、ポツンと生徒が座っている様はなかなかに|哀愁《あいしゆう》を|誘《さそ》う。始めの方こそ『うわ!過疎化《かそか》の進んだ村の小学校かよ』とか皮肉っていた|上条《かみじよう》だったが、|流石《さすが》に三日四日と続くと目新しさも消え、五日六日となるともううんざり気分しか残らない。  だが、その補習も今日を入れて後二日で終わる。八月二二日にもなってようやく夏休みスタートかーっ! という絶望的な気分にならなくもない上条だが、それでも補習から解放される事はやっぱり|嬉《うれ》しい。  上条は真正面の教卓を見る。  そこには見た目一二歳、身長=二五センチの女教師、|月詠小萌《つくよみこもえ》が教卓から顔だけ出す形で立っている。教卓の上にテキストを置いてしゃべっているのだが、あれなら自分の手で持った方がはるかに読みやすいのでは? と思う上条だった。 「一九九二年にアメリカで再制定されたESPカード実験の必須条件ですがー、カードの素材がビニール樹脂からABS樹脂に変更していますー。これはカード表面につく指の脂、指紋によって裏返したカードの種類が分かってしまうというトリックに対するモノで———って上条ちゃん、ちゃんと聞いてるんですか?」 「……、いや先生。ちゃんと聞いてるけどさー、これって『力』と何か関係あんですか?」  上条は|無能力者《レベル0》である。  精巧無比な機械で測った結果、あなたは頭の血管|千切《ちざ》れるまで踏ん張ったってスプーン一つ曲げられません、と言われているのに『力』が弱いから補習です、というのは何事かと上条は思う。  と、小萌先生もその辺りの|矛盾《むじゆん》に気づいているのか、口をへの字にして、 「でもでも。力がないからと言って|諦《あきら》めてしまっては伸びるものも伸びないのです。ですからまずは『力』とはどういうものか、初歩の初歩から知識を学ぶ事で、自分なりの『力』の御し方が発見できるんではないかなーと小萌先生なりにですね」 「先生」 「はいー?」 「……、なんか色々苦労してんですね。けど伸びないものは伸びませんよーだ」 「|上条《かみじよう》ちゃん! 努力すれば必ず成功するとは言いませんけど、努力しない人には絶対に成功 は訪れません! 二三〇万人中の第三位、|常盤台《ときわだい》中学の|御坂《みさか》さんなんて元は|低能力者《レベル1》だったのに頑張って頑張って頑張って|超能力者《レペル5》まで上り詰めたんですよ! だから上条ちゃんもガンバするのです!」 「……、|第三位《エリート》って、あれがあ? だって自販機に|蹴《け》り入れるような女ですよ!」 「? 上条ちゃん、御坂さんとはお知り合いです?」 「いや別に。話戻しますけどね先生、大体そんなテレビを見ながら『ご覧あの高校球児はあんなに|活躍《かつやく》してるのに、同じ|歳《とし》のアンタがそんなだらしなくって、みっともないとは思わないのかい?』みたいな事を言われた程度でやる気になる上条さんではないっ! うだー」 「うだーってしないでください、うだ!って! それでは|小萌《こもえ》先生も困ります!」 「そーですか2 じゃあ小萌先生は何で困ってんのにそんなに|嬉《うれ》しそうな顔してんですか?」 「え、あ……そりゃ、先生がですね……好き、だからですよ————?」 「ぶごっ!?」 「———授業が」 「……、あー。そうね、授業ね。びっくりしたー……って、あっ! せっかく軌道をズラして|無駄話《むだぱなし》してたのに本題に戻された!」 「あっはっは。舌技で小萌先生と戦おうなんて一〇〇年早いのです。ほら上条ちゃん、テキス ト一八二ページの犯罪捜査における|読心能力者《サイコメトラー》の思考防壁の所から読んで下さいー」  そんなこんなで今日も補習の時間が過ぎていく。      2  そうして今日も補習が終わった。  時刻は午後六時四〇分。完全下校時刻に設定された終電に乗り損ねた|上条《かみじよう》は、夕暮れの商店街をのんびり歩いていく。『夜遊び防止』との事で、学園都市の終電終バスは基本的に午後六時三〇分なのだ。交通機関を眠らせる事で深夜の外出を抑えつける方針らしい。  あと一日かまだ一日か、とにかく長かったなー、ちくしょー終わったら海でも行ってやる、と考えながら上条は夕暮れの帰り道を歩いていく。風が吹いているようには見えないが、風力発電のプロペラがくるくる回っていた。 「む?」  と、上条は人込みの中に見慣れた後ろ姿がある事を発見する。|常盤台《ときわだい》中学の夏服を着た茶色い髪の少女————|御坂美琴《みさかみこと》だ。  まあ特に|回避《かいひ》する理由もない上条はちょっと小走りして美琴の横に並んでみる。 「おっすー。そっちも補習で今帰りってトコ?」 「あん?」と、美琴は女の子らしからぬ反応を返し、「ああ、アンタか。今は疲れてるし残った体力も温存しときたい所だからビリビリは|勘弁《かんべん》しといてやるわ。で、用件は?」 「いや用件ってか、道がおんなじなら何となく|一緒《いつしよ》に帰りたいだけなんだが」 「ほう?」と、ちょっと美琴の目が細くなる。「常盤台のお|嬢様《じようさま》に向かって、ただ何となく帰りたいと? ふっ、その位置に立つのに一体どれほどの男どもが努力を重ねているか」 「……、自覚あるお嬢って、最悪だよな」 「冗談よ|馬鹿《ばか》」美琴は小さく舌を出して、「どこに通っているかではなく、そこで何を学んでいるかが重要よね。そんな事が分かんないほど幼くないわよ」 「ふうん。ま、持論は人それぞれって事で。時に妹は一緒じゃねーの? 昨日ジュース運んでもらったから礼とかしときたいんだけど」  びくり、と美琴の|眉《まゆ》が小さく動いた。  ほんの数ミリ程度の動きでしかないが、上条はその数ミリが妙に気になった。 「妹って……アンタ、あの後あの子と会ってたの?」 「あー……、」  まずい、と上条は思った。確か、美琴は一度、御坂妹の手を強引に引っ張って上条の元を離れている。そうなると、後でもう一度会った事は|内緒《ないしよ》にしておいた方が良かったのでは?  と、美琴はわずかに目を細めて、 「ってか、妹ってそんなに気になるのかしら?」 「違うって。だからジュース運んでもらったお礼がしたいだけ——」 「ビジユアルおんなじでもやっぱり妹を選ぶ訳? それとも優柔不断に双子は|姉妹《セツト》でご購入?」 「だから違うっつってんだろ! テメェどこで仕入れた知識だそれ——こ  と、こんな感じで|上条《かみじよう》と|美琴《みこと》はぎゃあぎゃあ.|騒《さわ》ぎながら表通りを歩いていく。  表通りにはたくさんの風力発奄のプロペラが立っている。くるくると回転するプロペラを追って上条が視線を上げると、夕空に飛行船が浮かんでいた。飛行船のお|腹《なか》にくっついた|大画面《エキシビジヨン》は、筋ジストロフィー関連の研究施設は二週間で三件ほど相次いで|撤退《てつたい》を表明しており市場全体の底冷えが|懸念《けねん》されます、と今日の学園都市ニュースを流している。  上条の意識が飛行船の方に向いたせいか、会話が途切れた。  飛行船、なんて言うと前時代的に聞こえるかもしれないが、あれは太陽光発電で、船内の炭酸ガスをヒーターで熱して浮力を生み、巨大なモーターを回して動力を得る、燃料いらずのエコ機体らしい。  あんなものを真剣に開発しているんだから、やっぱり世界の石油ももうすぐ底が尽きるのかな、と上条が|他人事《ひとごと》みたいに考えていると、美琴がポツリと|咳《っぶや》いた。 「私、あの飛行船って嫌いなのよね」 「あん? 何でだよ?」  上条はもう一度飛行船を眺めながら言った。確かあれは学園都市の統合理事会が『学生にもっと時事問題を知ってもらうために』飛ばす事を決めたものらしい。 「……、機械が決めた政策に人間が従ってるからよ」  何か|忌々《いまいま》しそうなモノを吐き出すように、美琴は静かに答えた。  上条はギョッとして飛行船から美.琴に視線を移した。美琴の顔におかしな所はない。おかしな所は何もない、まるで崩れた粘土の仮面を見てない所で作り直したように。 「あんだよ。何だっけ? えーっと『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』だっけか? はん、お前ってチェスで人間が機械に負けるのが許せないクチか?」 『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』とは簡単に言えば世界で一番賢いスーパーコンピュータの事だ。より完全な天気予報を行うために、という名目の下で作られた、究極の|予言機械《シミユレーター》でもある。  天気予報というのは身近に聞こえるが、実は『予報』はできても『断言』できない分野である。それは『天気』を作る空気の粒子一つ一つの動きが、バタフライ現象やカオス理論が|絡《から》む複雑な動きを見せるため、『明日は八〇%の確率で雨でしょう』と言う事はできても、『午前九時一〇分〇〇秒は絶対に雨が降ります』とは言い切れないのである。この辺りは量子力学の|概念《がいねん》に似ている。  だが、『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』はこの天気予報を天気予言へと進化させた。  複雑な事は何もしていない。ようは世界中に流れる|全《すべ》ての空気の粒子の動きを完全に予測すれば、『たった一つの答え』を導き出す事ができるというだけだ。  そんなトンデモ|性能《スペツク》を|誇《ほこ》る『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』だが、一説によれば、天気予報に使うというのは『建前』で、実は『本音』となる、別の事に使うのが目的らしい。  例えば、『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』の天気予報には一つだけ変則的な所がある。  一ヵ月分の天気予報を、一気にまとめて演算するのである。  別にそれでも外れないのだから問題ないのだが、これははっきり言って|無駄《むだ》な労力としか思えない。それは『明日の天気』に比べて『週間天気』が圧倒的に外れやすい事から分かるだろう。正確な天気を知りたければ、一日一日演算を繰り返した方が楽なのだ。  なのに、『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』はその演算能力に任せて|敢《あ》えて困難な方法を選んでいる。  ちなみに、ウワサでは。  余った残りの時間は、研究の予測演算に使われているらしい。  薬物反応、生理反応、電子反応、これら全てを『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』に演算させて、出てきた答えを確かめる程度に二、三実験すれば新薬の出来上がり、というのだからとんでもない。ウワサでは試験管の取り扱いも分からず実験用マウスに触るのも|嫌《いや》がる研究者さえいるとか。  それほどまでに絶大な力を誇るスーパーコンピュータはとにかく多くの敵を持つ。機械嫌いの人間至上主義者はいつ爆破テロに走るか分からないし、人間嫌いの電脳至上主義者は技術を 盗むために『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』の保管室に忍び込もうとするかもしれない。  そんなこんなで、外敵から身を守るために現在『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』は人の手に届かない所に安置してある。  ぶっちゃけた話が、学園都市が打ち上げた人工衛星こそが『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』なのだ。  本来なら国家機関でなければ開発する事が許されないロケット技術をこんな所で私用に使っている辺り、学園都市の世界に対する|影響力《えいきようりよく》の大きさが|窺《うかが》える。 (ま、逆に言えばそんだけ|無茶《むちや》を通すだけの価値があるって事か)  |上条《かみじよう》は夕空を眺めながらぼんやりと考えた。こうしている今も、『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』は大気圏の外で世界の終わりでも演算しているのかもしれない。 「天高くより人々を見下す鋼鉄の頭脳ってか。けどあれが人間に|牙《きば》を|剥《む》くなんて事はありえねーだろ。安物のSF映画じゃあるまいし、結局は銀行のATMと同じ——押されたボタンの通りに動いてるだけなんだから」  そう、どれだけの演算能力を持っていても、|所詮《しよせん》『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』は人の命令なくしては動けない。ATMが人の身を滅ぼすのは機械が反乱したからではなく単にご利用が計画的でなかっただけなのと同じ事だ。 「……、」  |美琴《みこと》は答えず、もう一度だけ夕空を見上げた。飛行船を見ているのか、もっと遠くに視線を投げているのかは|上条《かみじよう》には分からない。 「『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』……気象データ解析という建前で学園都市が打ち上げた人工衛星『おりひめ㈵号』に搭載された、今後二五年は|誰《だれ》にも追い抜かれない事が判明している世界最高のスーパーコンピュータ————」  |美琴《みこと》は学園都市のパンフレットでも読むように、口の中で転がすように|眩《っぶや》き、「————なんて言われてるけど、実際そんな|馬鹿《ばか》げた|超高度並列演算器《アブソリユートシミユレーター》なんて実在するのかしらね?」 「は?」  上条は美琴の顔をもう一度見たが、 「なーんちゃって! あーちょっと詩人になっちゃったわ、あははははU」  ずびし、と美琴は理由なく上条にチョップする。  そこにいたのは、やっぱり活発で生意気で自分勝手な|御坂《みさか》美琴だった。 「痛ったあ! テメェいきなり何すんだ!」 「けどアンタも夢がないわよねー。人の心を持った高度なSFコンピュータと人間の友情ドラマ、なーんて結構ロマンがあると思ったりしないのかしら?」 「聞けよテメェ……」 「例えばメイド型|戦闘《せんとう》ロボとか」 「聞けよ! っつかロマンじゃねーし友情ドラマじゃねーだうそれ!ってかテメェは本当にお|嬢様《じようさま》なのか! お嬢様って紅茶片手に恋愛小説とかじゃないのー7"」 「はあん? やめてよねー、いつの時代の|偶像崇拝《アイドル》よそれ。私だって人間なんだから毎週月曜と水曜はコンビニでマンガの立ち読みぐらいしてるわよん」 「買えよ! ってか迷惑だよお前!」  上条の叫びなどお構いなしに、美琴は『じゃ、私こっちだから』と言ってさっさと立ち去ってしまった。|一瞬《いつしゆん》前と一瞬後であまりにもテンションの異なる美琴の後ろ姿をぼんやり眺めながら、上条は首を|傾《かし》げて|呟《つぶや》いた。 「……わっけ分かんねえ。思春期特有の……って言っちまって良いのか? それともやっぱ嫌われてんのかねえ?」      3  しかし、だとすると目の前の光景が理解できない。 (……、美琴だよな? 何やってんだアイツ) 美琴と別れた上条が少し道を進むと、道路|脇《わき》に美琴がしゃがみ込んでいた。そこは風力発電のプロペラの真下で、支柱の根元にはダンボール箱が置いてある。ヤバイどこかで見た光景だと|上条《かみじよう》の脳が警報を発した|瞬間《しゆんかん》、ダンボール箱の中に黒猫が突っ込んであ.るのが見えた。  |美琴《みこと》は黒猫にエサを与えようとしているのか、菓子パンを持った手を黒猫にゆっくり近づけているが、|脅《おび》え切った黒猫はなんかグンコツでも振り上げられているように耳を伏せて丸くなってしまっている。 (??? アイツは|俺《おれ》の事が嫌いだからわざわざ道を変えて別れたんだよな? だったら何で道の先にいるんだ? 先回りなんかする理由がねーし)  頭の中で『?』が飛び回っている上条はその時ようやく気づいた。しゃがみ込んでいる美琴の足元に、|暗視《NV》ゴーグルのようなものが置いてある。  美琴ではなく、彼女と良く似た|御坂《みさか》妹だったのだ。 「……、つか、ゴーグルなくなるとホントに見分けがつかねーな」  上条が|呟《つぶや》くと、無表情のまま黒猫をじっと見ていた御坂妹の動きがピタリと止まった。全く無言のまま灯台みたいに首だけを巡らせて上条の顔を見る。 「ラっす。昨日はジュースとノミの件、さんきゅーな」 「……、特に謝礼が目的ではありません、とミサカは返答します」  無表情の中にわずかなムッとしたモノをにじませつつ、御坂妹は地面に置いていたゴーグルを額に引っ掛けた。菓子パンを持っていた手も引っ込めてしまう。 「ゴーグルを外していたのは、猫はレンズ等の光り物を嫌う特性を持っているという事前情報に従っただけです、とミサカは説明します。お姉様と混同させた事に対しては謝罪するべきでしようか?」  言いながら、|何故《なぜ》か御坂妹は無表情のまま菓子パンを後ろ手に隠してしまう。  今まで脅えていたくせに黒猫がみーみーと不満そうな声をあげた。 『?』と上条は首を|傾《かし》げて、 「そんなつまんね!で謝罪させたら|俺《おれ》は世界中の人間に謝罪を要求されると思うけど」上条 はため息をついて、「でも、猫がレンズ嫌いってんならわざわざゴーグル引っ掛け直してどー すんだよ。なに、ひょっとして個人的に見られたくなかった訳?」  そう、無表情で動作に落ち着きがあるから分かりにくいが、上条には何故か、御坂妹は人に見られて慌ててゴーグルをかけ直した————ように、見えた。 「……、別に、そういう事ではありません、とミサカは答えます」  答える声は即答だったが、何故か表現は|曖昧《あいまい》だった。  上条は再び『?』と首を傾げる。確かに無表情無感情な御坂妹が、路上の猫を|恐《こわ》がらせないようにゴーグルを外し菓子パン片手にしゃがみ込んで手招きする———というのはイメージから遠いが、特に隠さなければならない事ではないような気がする。 「なら猫に菓子パンあげれば良いじゃん。猫、嫌いじゃないんだろ?」 「いえ、……。そういう、訳では」御坂妹の動きがピタリと止まる。「どの道、ミサカにはこの猫にエサを与える事は不可能でしょう、とミサカは結論づけます。ミサカには一つ、致命的な欠陥がありますから、と補足説明します」 「欠陥って、やな言い方すんなよ」 「いえ、欠陥で適切です。ミサカの体は常に微弱な磁場を形成します、とミサカは説明します。人体には感知できない程度ですが、|他《ほか》の動物だと異なるようです」 「???」 「|地震《じしん》の予兆として見られる動物の異常な動きも、地殻変動によって地中で生じた磁場の変化に反応するものと言われていますから、とミサカは分かりやすい例をあげてみます」 「……、ふうん。あれって一応、動物は|嫌《いや》がって逃げてんだよな。つまり、|御坂《みさか》妹は磁場のせいで動物に嫌われやすいって事なのか?」  御坂妹は、少しだけムッとして、 「嫌われているのではありません、苦手だと思われているのです、とミサカは訂正を求めます」 「……、」  何だか|可哀相《かわいそう》だったので|上条《かみじよう》はこれ以上はつっこまない事にした。体から出る磁場のおかげで、何もしなくても動物に嫌われてしまう御坂妹は、無表情な|瞳《ひとみ》で|脅《おび》える黒猫の顔を|覗《のぞ》き込んでいる。何か|邪魔《じやま》しちゃ悪いな、と感じた上条はこっそりその場を離れようとしたが、 「待ちなさい、とミサカは制止を促します」 「うお! 気配だけで察知された!」 「聞きなさい。ここに一匹の黒猫がいます、とミサカはダンボールの中を指差します。このお|腹《なか》をすかせた黒猫を前に、何も与えずに立ち去るというのはどういうつもりかとミサカは問いかけます」 「……、いや、何でお前が黒猫を|懐《なつ》かせるのに|俺《おれ》がエサ代を払わなきゃならないんだ! 大体お前の手には菓子パンあんだうが!」 「そうではなく。捨てられた猫がここにいるのに、一休どうして拾おうと考えないのですか、とミサカは再度問いかけます。保健所の人間に回収された動物がどのような扱いを受けるか知っていますか、とミサカは例え話をしましょう。まず透明な|航空素材《ポリカ ボネイド》のケースの中に動物を収 め、そこへ|神経ガス《ASD10》を二〇ミリ注入し」  わーっ! と上条は大声で叫んで御坂妹の言葉を|遮《さえぎ》る。  脅える黒猫のビジョンと照らし合わせると、その話はとんでもなく気まずい。 「お前が拾えよ! お前が見つけてお前がエサやってたんだし!」  上条は当然のように叫んだが、 「……、ミサカには、この猫の飼育は不可能だと、ミサカは正直に答えます。ミサカの居場所は、あなたの生活環境とは|若干《じやつかん》異なりますから、とミサカは理由を述べます」  |寮《りよう》のの規約が厳しいんだろうか、と上条は思った。が、そんな事を言ったら上条の寮だってペットの持ち込みは禁止である。基本的に、どうして守らなくちゃいけないのか理由が分からないルールなど従う気ゼロの|上条《かみじよう》としては、そんな程度で|御坂《みさか》妹が黒猫を|諦《あきら》める事の方が奇妙に映ったが……。  しゃがみ込んだ御坂妹は、ただじっと黒猫の目を眺めていた。  無表情な|瞳《ひとみ》は、決して黒猫が|懐《なつ》いてくれない事を知りながらそれでも黒猫を追っていた。 「……、うわー」  上条は思わず立ち止まっていた。  大体、一匹目を拾った辺りから|懸念《けねん》していたのだが、一匹拾えば二匹拾う事になり、二匹拾えば三匹四匹と増えていくような気はしていたのだ。しかし当然ながら、上条さん家のお財布事情は動物王国を作っても|大丈夫《だいじようぶ》なほど|潤《うるお》っているはずがない。  できる事なら黒猫はお断りしたい上条だが、放っておくと御坂妹は夜が明けるまで延々と黒猫を眺め、保健所の人間と}戦交えそうな気さえしてくる。 「く、くそ……ッ! なんか|三毛猫《みけねこ》ん時もこんなパターンじゃなかったか!!」 「あなたが何を言っているか理解が不可能なのですが、結局その黒猫を拾う意思はあるのですか、とミサカは問いかけます。あなたが拾わなかった場合、保健所の職員が———」 「あーちくしょう分かった分かったからその無表情な目でこっちをじっと見上げながら保健所の話とかすんじゃねえ!」  |上条《おれ》も|黒猫《おまえ》も不幸だよなあ、と思いながら、ダンボール箱の中の人見知り気味の黒猫を両手で抱き上げつつ、 「そうだ、名前! こいつはお前の猫なんだから、責任持ってお前が決めろよ!」 「……、ミサカの?」 「そう、お前の」  |上条《かみじよう》が腕の中の黒猫を見下ろすと、黒猫はびくびくした視線を上条に返す。そんな様子などお構いなしの|御坂《みさか》妹は無表情ながら、ちょっとだけ夕空を見上げ、 「いぬ」 「は?」 「この黒猫には、いぬとミサカは命名します。……猫なのにいぬ、ふふ」  何か思い出し笑いみたいになっている御坂妹の顔がちょっと|恐《こわ》い。 「……、いや、だから。お願いだから生き物関連には|真面目《まじめ》に、もっと威厳のある名前をさ」 「では徳川家康と、ミサカは再考します」 「偉すぎ! ってか考えてるふりして実は何にも考えてないキャラかお前!」 「ならばシュレディンガーと———」 「ふざけんな! もののたとえとはいえ毒ガスの噴き出す箱ん中に猫を突っ込む話を|嬉《きき》々として語る博士が猫好きな訳ねーだろ!」 結局、猫の名前は保留にする事にした。が、このまま行くと決まらないまま『保留』なんていうミもフタもないあだ名が定着しそうで|嫌《いや》だなあと思う上条だった。      4  空の色はオレンジから紫色に変わっていた。  上条は腕の中の黒猫に視線を落としながら、てくてくと表通りを歩.いていく。  本格的に動物を飼うと決めた以上、まずは動物の飼い方が分からなければならない。 (……、いや、|俺《おれ》は多少なりとも分かるんだけどさ。インデックスがなー)  上条は夜に染まり始めた街を歩きながらため息をついた。悪意あるイタズラなら『悪意』を取っ払えば済む話だが、インデックスの場合は一〇〇%善意で正しいと思っている行動が逆効果、という一番手に負えない状況にある。 一〇〇%豊呈思だから決して|止《や》めないし正しいと思っている事にはためらわない。早々に本屋へ行って『猫の飼い方』なる本を買ってこなければ、にっこり笑顔の純白シスターに|飼猫殺《デスエンド》しなんて異名がつきかねない。 「昨日とは道順が異なります、とミサカは指摘します」  |隣《となり》を歩く御坂妹がそんな事を言った。彼女が上条の腕の中にある黒猫をチラチラ見るたびに、何かいたたまれない気持ちになる。どうも磁場のおかげで猫に嫌われてしまう体質の御坂妹は、 本当はメチャクチャ黒猫を|撫《な》で回したいのに黒猫の気持ちを優先して、その感情を抑えつけているらしい。 「あー、寄り道だよ寄り道。ちょっと欲しい本があるからさ」 「本屋へ行くのが目的ですか、とミサカは問います。地理的に言えば、先ほどの交差点を右折した方が近そうですが、とミサカは背後を振り返ります」 「うんにゃ、|新品《そつち》じゃなくてその先の古本屋。猫の飼い方なんざ古いも新しいもねーだろ」  一冊一〇〇円が理想の形です、と|上条《かみじよう》は答える。  ……ちなみに、上条の知る|由《よし》もないが『生き物』関連の知識・常識とは刻々と変化するものである。例を挙げるならば野球のトレーニング法。一〇年前の本には平気で『Q、どうやったら速くボールを投げられますか?』『A、いっぱい投げればいっぱい速くなる。痛くなっても根性で我慢』と書かれている。実際に有言実行した場合、まず確実に肩の関節を|破壊《はかい》する事になるだろう。 「猫の飼育法に関する|書籍《しよせき》が欲しいのですか、とミサカは確認を取ります」 「書籍じゃなくて知識だな。ってかお前も見ただろ、あの修道服と|巫女《みこ》装束」 「……、」|御坂《みさか》妹は無表情な|瞳《ひとみ》で上条の顔を見た。「重ねて申し上げますが、猫の命を不用意に扱った場合は器物破損の罪に問われます、とミサカは警告します」 「あ、え? なに、怒ってる?」 「怒っていません。あなたが直接|関《かか》わっていなければそれで良いという話ではありません、とミサカは注意を促します。あの二人が何をしているか理解した上で放置していた場合はあなたにも責任がある、と客観的意見を述べますし 「……、ごめん。御坂妹、怒ってる?」 「怒っていません。大体、法的に問われなければ何をしても良いというものではないでしょう、とミサカはあなたを|諭《さと》します。常識的に考えて————」 「あー、」上条はうんざりだぜ、という|呪《のろ》いを込めて、「けど|大丈夫《だいじようぶ》だって。インデックスも|姫神《ひめがみ》も『猫にとって良いと思う事』を実行してるだけだから。|体罰《たいばつ》とか|虐待《ぎやくたい》とか、あからさまに『猫にとって悪いと思う事』はしねーし」 「先日の様子を見る限り今の発言に対する|信頼度《しんらいど》は限りなくゼロに近いのですが、とミサカは返答します。大体本に書かれている事に間違いがあった場合はどう対処するのですか、ここはやはり猫の取り扱いを知るミサカが助言すべき———」 「あーっ!」上条は最後まで聞いていない。「けど大丈夫だって! インデックスも姫神も『猫にとって良いと思う事』を実行してるだけだから! 体罰とか虐待とか! あからさまに『猫にとって悪いと思う事』はしねーし!」 「……、テンションの違いのみで一字一句同じ事を口に出しているだけのような気がします、とミサカは感想を述べます。要点はそこではなく、つまりミサカが——」 「あぶあ!」|上条《かみじよう》はもう訳が分からない。「べぼ|大丈夫《だいじようぶ》ばって! インデックスぼ姫神ぼ『猫ぎぼっべ良いと思ぶ事』を実行びべるばげばばら! 体罰どば虐待どば! ばばらざばび『猫びぽっべ悪いぼ思ぶ事』ばびべーじ!」 「……、—————(怒)」 「はあ、ハァ……っ! あ、本屋だ本屋」  そうこうしている内にチェーン店の大きな古本屋の前まで来てしまった。上条は腕の中の黒猫に視線を落として、ちょっと考えてみる。 「む。そういや猫を抱えたまま店ん中には入っても大丈夫かな」 「……、果てしなく説明|臭《くさ》い|台詞《せりふ》なのですがこちらに預けるのはご|遠慮《えんりよ》ください、とミサカは先手を打ちます」 「……、磁場の出る体質のおかげで猫に嫌われてるからってか? ならばその壁を乗り越えてこそ真の友情が芽生えるというもの。食らえ必殺猫爆弾!」  上条はすぐ|隣《となり》にいる|御坂《みさか》妹に向かって、(彼女が受け取る事を予測して)黒猫をゆっくりと放り投げた。当然、猫の反射神経や運動能力を考慮すれば放っておいても|華麗《かれい》に着地するのは目に見えている。……見えているが、御坂妹は(上条の計算通り)反射的に手を伸ばしてしまった。動物愛好家の悲しい|性《さが》である。  御坂妹が何か文句を言おうとした時には、上条はもう古本屋の中に入っていた。 「……、まったく。一体いかなる神経で子猫を投げる事を良しとしたんでしょうか、とミサカは一人|呟《つぶや》きます」  御坂妹は一人、夕暮れに染まる学園都市でポツリと眩いた。  黒猫は御坂妹の体から放つ電磁波に反応して、びくびくと|脅《おび》えた目で彼女を見た。御坂妹は黒猫を地面に下ろしてしまおうかとも考えたが、この黒猫はまだ御坂妹や上条を『飼い主』と認めた訳ではない。ここで手を離すとどこまでも逃げて行ってしまいそうな気がする。  いかに相手が子猫であるとはいえ、生身の人間の足では本気で逃げる猫に追い着ける道理はない。『飼い主』がまず始めに行う事とは、エサを与え寝床を用意し『この人間からは逃げなくても良い』という安心感を抱かせる事こそが重要なのに。 「……、それを、よりにもよって放り投げるとは、とミサカはため息をつきます」  全く無表情のまま彼女は言う。不幸中の幸いにして、抱えられた黒猫は特に|爪《つめ》を立てたり暴れ回ったりはしない。大人しい、というよりは|恐《こわ》がりの部類に入るんだろう。確かに猫には触ってみたかったが、こんなに脅えられるぐらいなら我慢した方がマシなのに、と御坂妹は改めてもう一度ため息をついて 気づいた。  夏休みという事もあり、夕暮れに染まる学園都市の表通りには私服の少年少女が|溢《あふ》れ返っていた。この中では制服を着た|御坂《みさか》妹の方がはるかに浮いて見える存在だろう。  だが、それでも———視線の先にいる少年に比べればまだまともだ。  髪も肌も恐ろしいほどに白い少年。白、と言ってもそれは清潔や潔白と言ったイメージとは対極に位置する、|濁《にご》りに濁った白濁の白。その腐敗する白をさらに強調させるように、衣服は|全《すべ》て黒で統一されていた。  そして、|瞳《ひとみ》。  鮮血のように赤く、火炎のように|紅《あか》く、地獄のように|緋《あか》い、その|双眸《そうぽう》。  遠く離れた雑踏の中、けれど少年の存在はあまりに鮮烈だった。特別少年が何をしているという訳ではないのに、格別少年がおかしな事をしている訳でもないのに。  |敢《あ》えて告げるならば、その地獄のような少年が、この|平穏《へいおん》な街の中に|仔《たたず》んでいる事が異常。  |一方通行《アクセラレータ》。  学園都市で———いや、おそらく全人類の中で最強と|謳《うた》われる|超能力者《レペル5》はただ御坂妹を眺めていた。眺めながら、ただ静かに笑っていた。 「……、」  御坂妹は、抱えた黒猫を静かに地面へ下ろす。  殺される。このまま自分と|一緒《いつしよ》にいては、確実にこの黒猫は争いに巻き込まれて殺される ———御坂妹はそこまで分かっているのに、黒猫は彼女の|側《そば》を離れない。ふるふると|脅《おび》えたように|震《ふる》えながら、逃げるのではなく腰が抜けたように御坂妹の顔を見上げて、みーと鳴いた。  |一方通行《アクセラレータ》は、そんな御坂妹を見て笑っていた。白のイメージから遠く離れた、|歪《いびつ》に|歪《ひず》み|歪《ゆが》んだ———白熱し|白濁《はくだく》し|白狂《はつきよう》した笑みを。  去来するのは、一っのイメージ。  深夜、爆散した|対戦車ライフル《メタルイーター》が一人の少女の右腕を|噛《か》み|千切《ちぎ》った一つのイメージ。  この|瞬間《しゆんかん》に、御坂妹の日常は終わっていた。  この瞬間から、彼女の地獄が始まっていた。      5  冷房の|利《き》いた店内には大勢の少年少女で溢れ返っていた。  ここは大型チェーンの古本屋で、値段の安さもさる事ながら立ち読みOKを前面に押し出している。店の中にいるのも『マンガ読みてーけど買うまでじゃねーんだよなー』という人間が大半だった。 「……、」  そんな中、|上条《かみじよう》は|呆然《ぽうぜん》と立ち尽くしていた。  |上条《かみじよう》の目の前の本棚には『猫の飼い方』なる本が確かに差さっていた。背表紙は日に焼けているが、その分安くなっているのだから文句はない。  だが、このセンスはどうだろう、と上条は思った、 『猫の飼い方』の|隣《となり》に『|美味《おい》しい牛肉の調理法』とかいう本が突っ込んである。 「……、いや。確かにおんなじ動物の本である事に問違いはねーんだろうけどさあ」  さらに視線を横へずらすと『最新! 牧場ビルの科学牛』とかいう本がある。  学園都市には窓のないビルがいくつかある。これは水栽培の野菜や食肉用の動物を育てる『農業ビル』と呼ばれるモノだ。  ビルの中で紫外線ライトを浴びて、空気清浄機を通した二酸化炭素を吸って、各種栄養剤の混じった水の中に根を張る野菜———こう聞くと、学園都市の外にいる人|達《たち》は『気持ち悪い』と言うらしい。科学的に作られた食べ物は休に悪そうだ、と思うようだ。 (……、逆だよなー。産業廃棄物とか工業廃水とか、ナニ混じってっか分っかんねー土から育った野菜なんて口にできるかよ)  この辺りの価値観の違いが学園都市の『中』と『外』の壁なんだろうけど、と上条は特に深く考えず『猫の飼い方』の本を本棚から引き抜いた。  その古本屋の裏手に回るように少女は路地を走っていた。  靴が片方脱げた。  片方だけ|履《は》いていても走るのに|邪魔《じやま》だと感じた少女はもう片方も脱ぎ捨てて、なお走る。  肩の所で切り|揃《そろ》えられた茶色い髪、|半袖《はんそで》の白いブラウスにサマーセーター、プリーツスカートという姿は一見して|常盤台《ときわだい》中学の生徒を連想させる。さらに少しでも内情を知った者なら|御坂美琴《みさかみこと》という名前を思い浮かべる事だろう。  だが、中学生と呼ぶにはあまりに不釣合いなものが二つ。  一つは額にかけた軍用の精密ゴーグル。  二つは右手に握り締めるアサルトライフル。  アサルトライフル、と言っても材質は鋼鉄ではなく積層プラスチック、さらに形も|戦闘機《せんとうき》に見られるような機能美が備わっているため、まるでSF世界に出てくるオモチャの鉄砲に見える事だろう。そして、その表現はあながち間違ってもいない。  そのライフル———F2OOOR『|オモチャの兵隊《トイソルジヤー》』は赤外線により標的を補捉し、電子制御で『最も効率良く弾丸を当てるように』リアルタイムで弾道を調整する機能を持つ。射手は風向きや標的の予想|回避《かいひ》パターンなどを考える事なく、ただ『考える機械』の言う通りに銃口を向ければ|誰《だれ》でも銃の名手になれる。その上、銃身をぐるりと|覆《おおう》う|衝撃《しようげき》吸収用の特殊ゴムと炭酸ガスによって射撃の反動は極限まで軽減される。対戦車ライフルの|鋼鉄破り《メタルイーター》が大の大人でも扱えない化け物なら、『卵の殻すら割らない』軽反動のF2000Rは小学二年生ですら軽々と扱える『怪物』だ。  だが、少女はそんな『怪物』を手にしてさえ、追われる立場を逆転できなかった。  暴れ狂う心臓の鼓動、不規則極まりない呼吸、明滅し混乱する思考———その一つ一つは、確実に彼女が狩られる側の人間である事を証明している。  背後に迫る影。  ほんの一〇メートルもない距離まで接敵した白い少年は、 「はっはァ! ンだァその逃げ腰は。愉快にケツ振りやがって|誘《さそ》ってンのかァ!?」  その狭い直線の路地で、銃弾相手に逃げる場所も隠れる場所もない直線の路地で、それでも丸腰のままに『狩る側』の狂熱に|溺《おぼ》れていた。  少女は走る足を止めずに腰を回して身をひねるように背後を見据える。  腰だめに構えたF2000Rの銃口は真夏の熱気を凍結させるように|白い少年《アクセラレータ》を|射貫《いぬ》く。  引き金を引く事はためらわない。  |衝撃《しようげき》と共に発射音すら静かに『食った』ライフルは、銃口から爆竹のような安っぽい、最小限の|炸裂音《さくれつおん》を|響《ひび》かせて五・五六ミリの弾丸を正確に少年の急所へ|叩《たた》き込む  はずだった。 「……!?」  少女の体が|驚愕《きようがく》に凍りかける。自動車の側面を|撃《う》ったら車の反対側から弾が突き抜けるほどの威力を|誇《ほこ》る五・五六ミリ弾が、少年の体に当たった|瞬間《しゆんかん》に四方八方へと|弾《はじ》かれた。まるでチャチな|拳銃《けんじゆう》を戦車の前面装甲に撃っているように。  びずっ、と肉を|潰《つぶ》す音が聞こえた瞬間、少女の右肩に赤い穴が|穿《うが》たれていた。  弾かれた弾丸の一発が少女の肩を撃ち抜いたのだ。 「……ぃ…ぎ!」  少女の体がよろめく。とっさに壁へ手をつこうとした所で足がもつれ、頭からコンクリートの汚い壁へ激突した。そのままずるずると地面へ崩れ落ちた所へ、 「ほらほら退屈しのぎに一丁ナゾナゾでもしてやろオか? さァって問題、|一方通行《アクセラレータ》は果たしてナニをやってるでしょオかァ!?」  狂笑。少女が頭上を見上げれば、飛び上がった少年の足が全体重をかけて少女の|頭蓋骨《ずがいこつ》を踏み潰そうとしている所だった。 「!」  少女はとっさに汚れた地面を転がり、振り下ろされる足を|回避《かいひ》する。そのまま頭上を見上げるようにF2000Rを構え、引き金を引く。  ほとんどゼロ距離とも呼べる近距離での連射。白い少年の顔面はおろか眼球へと正確に吸い込まれる弾丸。だが、やはり弾丸は柔らかい眼球に触れた瞬間、横合いへと弾かれる。  白い少年は|瞬《まばた》きすらしない。  その|白濁《はくだく》する顔に浮かぶのは、焼け|爛《ただ》れたような笑み。  その白い手が振り上げられる。一体どんな効果があるかも分からない手が。 「……っ!」  少女はとっさに空になったF2000Rを少年の顔へと投げつけた。それが致命打になるとは思っていない。とにかく|一瞬《いつしゆん》でも|隙《すき》を突いて逃げる算段を立てようとしただけだ。  だが、少年はやはり身動き一つしない。その銃身が少年の顔面に激突した瞬間、F2000Rが粉々に砕け散った。まるで見えない巨大な|牙《きば》にでも|喰《く》われるように。  驚愕に凍る暇はない。少女は身をひねり、地面を転がる事でようやく一歩分の距離を稼ぐ。まだ動かす事のできる左手を振り回し、そこへ『力』を集約させ、  少女は|雷撃《らいげき》の|槍《やり》を解き放つ。  光の速度で突き進む紫電の槍は、人の意識を奪う程度の|破壊力《はかいりよく》は秘めているはずだ。  これが致命打になるとは思っていない。  せめて、|目眩《めくら》ましにでもして、逃げる算段を立てられればそれで良い。  なのに、だっていうのに。  よりにもよって、少年に激突した雷撃の槍は、跳ね返って少女の胸を貫いた。 「が……っ!?」  ドン! と胸に|木槌《きづち》でも打ち込まれたような|衝撃《しようげき》に、少女は地面を転がる。呼吸が止まり、全身の筋肉が不規則に動いた。  少女は|震《ふる》える|唇《くちびる》で、とっさに言葉を|紡《つむ》ぎ出す。 「反、射……?」 「いや残念。そいつも合ってンだけど|俺《おれ》の本質とは違うンだよねェ!」  少女は何とか少年から遠ざかろうとする。だが、自身で放った電撃のせいで体が全く言う事を聞かない。 「答えは『|向き《ベクトル》』変換でしたァ! 運動量、熱量、電気量。あらゆる『向き』は俺の|皮膚《ひふ》に触れただけで変更可能って訳。デフォじゃ『反射[#「反射」に傍点]』に設定してあるけどなァ!」  何だそれは、と少女は少年の顔を見上げた。  学園都市に存在する二三〇万もの能力者|達《たち》は、確かに特別な人間だ。だが、能力で|拳銃《けんじゆう》に勝てる人間は少数派だ。拳銃に勝てるなら機関銃は、機関銃に勝てるなら戦車は、|戦闘機《せんとうき》は、|戦艦《せんかん》空母に潜水艦、究極的には核ミサイルは?  そんなものに勝てる能力者などいない。というより、脳を制御し遺伝配列を調整してまで『銃と戦う力』を作るなら、素直に拳銃でも買えば良いのだ。米国ならスーパーで三万円程度で購入できるチャチな武器のために、わざわざ国際法をかいくぐって大規模な能力開発機関を作るなんて|馬鹿《ばか》げているにも程がある。  だから、学園都市の目的は『超能力者』にある訳ではない。『超能力者』などは|所詮《しよせん》リトマス紙に過ぎず、重要なのは|何故《なぜ》能力者が生まれるのか、そのメカニズムとは何なのか、という所にあるはずだ。  なのに、目の前の少年だけは違う。  運動、熱、電気———あらゆる『向き』を変更する少年は、究極的には核ミサイルが|直撃《ちよくげき》しても傷一つつかない。|全《すべ》てを|薙《な》ぎ払う|衝撃波《しようげきは》も、全てを焼き払う高熱も、全てを殺し尽くす中性子や放射線も、その全てを『反射』する事ができるのだから。  学園都市最強の|超能力者《レベル5》『|一方通行《アクセラレータ》』。  怪物、という言葉が浮かぶ。目の前にいる人間の形をした生き物は、それ単体で世界を敵に回して、なお生き残る事ができるほどの力を持っていたのだ。  少年は少女の|側《そば》にしゃがみ込むと、 「あらゆる『向き』を制御する|超能力《レペル5》」あまりにもかけ離れた少年は、けれど何でもない事のように、「こいつを使うとさァ、こんな事もできるンだぜ?」  言った|瞬間《しゆんかん》、少年の細い人差し指が、少女の右肩に空いた赤黒い穴へと刺し込まれた。まるで路上を歩く虫を|潰《つぶ》す子供のような動きだった。 「……っ!!」  ぐちゅり、という赤い果実をえぐるような音と共に少女の体が激痛に|強張《こわば》る。 「さァてそれじゃ敗者復活戦の問題です」白い|一方通行《アクセラレータ》は|嘲《あざけ》るように、「|俺《おれ》は今『血』に触れている。血の流れに触れている。さて、この『向き』を、この血の『向き』を逆流させると、人間の体はどうなっちまうでしょうかァ? 正解者には安らかな眠りを♪」  少女の顔に理解できないモノに対する空白のようなものが浮かんだ瞬間、  想像を絶する激痛が少女の全身に|襲《おそ》いかかった。 「ありゃ?」  |上条《かみじよう》は古本屋の紙袋を片手に店を出た所で、思わず立ち止まって|呟《つぶや》いた。  待っているはずの|御坂《みさか》妹がどこにもいない。無理矢理に黒猫を預けた事に腹を立ててどこかへ行ってしまったんだろうか、と上条は思った。  黒猫だけが、地面の上にポツンと残されていた。  上条はぺたりと耳を伏せて多少ビクビクしている黒猫を抱え上げると、もう一度辺りを見回した。夕暮れに染まる表通りには特に何の異常もない。遊び疲れた私服の少年少女が|学生寮《がくせいりよう》へと帰るため、多くの人|達《たち》が通りを歩いているだけだ。 (……?)  と、何気なく辺りを見回した上条は、その何でもない風景に何かを感じた。改めてぐるりと見回してみる。そうだ、古本屋と|他《ほか》の雑居ビルの|隙間《すきま》の路地。そこが何か引っかかる。何だろう、一体何が引っかかるんだろう? と上条は良く見てみた。路地の入口はタイル張りの歩道に面していて、その近くでは風力発電のプロペラがからからと回っている。入口はろくに掃除もしていないのか街路樹の葉っぱがたくさん集まっていて、女の子の靴が片方転がっていて、タイル張りの歩道も路地の入口を境にぷっつり途切れていて、路地の地面は何かいかにも間に合わせっぽいアスファルトが ——————女の子の靴が片方……? 「……、?」  |上条《かみじよう》は黒猫を抱えたまま、路地の入口へと近づいた。ぞわり、と。|嫌《いや》な予感が大量のムカデのように|這《は》い上がる。片方だけ転がった女の子の靴。いかにも学校指定っぽい、サイズの小さな茶色い|革靴《ローフア》だ。特に汚れてもいない清潔な靴は、ここに放置されてそれほど時間が|経《た》っていない事を意味していた。  上条は路地の入口を眺める。  すでに地平線に沈もうとしている夕日は建物の|隙間《すきま》には入り込まない。まるで|洞窟《どうくつ》の入口めいた|闇《やみ》が口を開ける路地の先は、ちょっと|覗《のぞ》き込んだぐらいでは何も見えなかった。 「……、」  上条は路地の先へと一歩踏み込む。  それだけで周囲の温度が二、三度下がったような気がした。足から体へ、何か|得体《えたい》の知れないモノを踏んづけたような感覚がせり上がってくる。  上条はさらに進む。と、路地の汚い地面に、もう片方の靴が転がっていた。さらに進む。嫌な予感が|膨《ふく》らむ。ゆっくりゆっくり、と思うのに足がどんどん速くなる。何を|焦《あせ》っているのか、と上条は思う。思っているのに呼吸も鼓動も坂を転がり落ちるように加速していく。  と、壁に何か削ったような跡がある事に上条は気づいた。まるで鉄の|杭《くい》でコンクリートを削ったような跡。それも一つや二つではない、やたらめったらに鉄の棒でも振り回したように壁という壁が傷つけられている。  上条の足が何かを踏んづけた。  金色……というより、銅の色に近い金属だった。単三電池ぐらいのサイズの、金属の筒だ。上条には、それが映画でしか見た事のない|薬葵《やつきよう》に見えた。何か花火の後に漂ってくるような、煙の|匂《にお》いがうっすらと残っている。 (何が……?)  上条は無意識の内に声を出すのを抑えていた。|何故《なぜ》か足音を殺しながら、それでも奥へ進む。一歩一歩進むたびに空気が|濁《にご》っていくような|錯覚《さつかく》がした。  さらに進むと、暗がりの向こうに何かが転がっているのが見えた。いや、正確には|誰《だれ》かが倒れているのが見えた。ここからだと足が見える。二本の足が見える。残る上半身は、まるで闇の向こうに喰われてしまったように見る事ができない。足の周りに何かが散らばっていた。プラスチックに似た破片やバネのようなもの———何かオモチャの|残骸《ざんがい》みたいなものが。 「みさか……?」  |何故《なぜ》、そこで真っ先に彼女の名前が出たのか|上条《かみじよう》には分からない。上条はさらに一歩進む。見えない|闇《やみ》を引き裂くように。  そこに、彼女はいた。  |御坂《みさか》妹は、死体となって転がっていた。       6  彼女は四角く切り取られた紫色の空を眺めるように、|仰向《あおむ》けに倒れていた。  血の海だった。 一体人間にはどれほどの血が詰まっているんだと疑問に思ってしまうほどの血の海がそこにあった。地面だけではない。両の壁には、上条の目の高さまでが赤い色彩で塗り|潰《つぶ》されている。まるで人間の体を|搾《しぼ》って血液を根こそぎ奪ったように見えた。  赤色の爆心地には一人の少女っ  |半袖《はんそで》やスカートから飛び出した手足はズタズタに引き裂かれていた。おそらく目に見えない、服の中も同じようになっているだろう。彼女の制服は元の色が分からなくなるほど紅に染まり、けれど、全身を引き裂かれているのに衣服には傷の一つも存在しなかった。  まるで全身の血管の中に細いワイヤーを通して、そのワイヤーを無理矢理に引きずり出したように———血管の流れに沿って体が内側から引き裂かれている。切り開かれた腕はカエルの解剖図を連想させた。切り開かれた少女に『顔』と呼べるモノはなく、まるで花が開くように、ゆで卵の殻を|剥《む》くように、そこにはただ赤黒い空洞とピンク色の筋肉の束と黄色いぶよぶよした脂肪が置いてあるだけだった。 「う…、あ……」  上条は目の前の赤と紫の光景を前に、思わず一歩後ろへ下がっていた。腕に力が入ってしまったのか、黒猫がみーみーと苦しそうな声を上げる。 「あ……、ぐ…」  上条は『三沢塾』という一つの地獄を知っている。けれど、あの時見た死体は|鎧《よろい》に包まれて いたり、溶けた純金に変換されたりと、『生身』の感覚がしなかった。  だが、今回は違う。  ぐっ、と|喉《のど》に指を突っ込まれたような吐き気が込み上げてきた。吐くな、と上条の心が|吼《ま》える。一体何を見て吐こうとしている、それは御坂妹なんだぞ———心のどこか、|綺麗《きれい》な理性がそんな事を叫んだ時……不意に上条の視界は御坂妹のスカートを|捉《とら》えた。  スカートの中、両足の間から、何かがはみ出していた。  ピンク色の表面に、うっすら紫色のかかった、ぶよぶよしたそれは[#「ぶよぶよしたそれは」に傍点]————  「う、げえ!」  |瞬間《しゆんかん》、ついに耐えられなくなって|上条《かみじよう》は体をくの字に折り曲げた。口の中に|酸《す》っぱい味が広がったと思った瞬間、胃袋の中身がまとめて口から飛び出す。  上条は吐いた。  ほんの一〇分ぐらい前まで、笑顔で話をしていた人の顔を見て。その奇妙な事実に、上条の頭の歯車が危うく吹き飛びそうになる。  汚い音を立てて地面に落ちた|吐潟物《としやぶつ》が広がる血の海の端と混ざり合い、奇妙なマーブル模様を作り出した。  血。  その時になって、上条はようやく気づいた。血は、まだまだ全然乾いていない。血液の|凝固《ぎようこ》時開は一五分程度———だとすると、これをやった人間はまだ近くにいるかもしれない。  これをやった。  上条は自分の言葉に|蒼《あお》ざめた。そう、どう見たってこれは事故や自殺には見えない。頭がくらくらする。残る可能性は、言葉に出して考えたくない。  と、その時。  がさり、と路地の奥から何か物音が聞こえた。 「!?」  常識的に考えれば|野良猫《のらねこ》か何かかもしれない。だが、この血の海が、すでに常識の|範疇《はんちゆう》を超えている。上条の足は、自然と後ろへ下がった。|暗闇《くらやみ》の先が|恐《こわ》いのもあった。だが、それ以上に、この[#「この」に傍点]御坂妹をまたいでいく事は考えられなかった。  一歩、二歩……、と後ろへ下がった上条は、そこでポケットの中に硬い感触があるのを思い出す。携帯電話だ。|誰《だれ》かに助けを求めよう、と思ったが、こんな状況で助けを求めた所で、助けがのこのこやってくる前に危険はやってこないのか。助けを求めるにしても、まずはここから出なければ、と上条は御坂妹から背を向け、走って路地を引き返した。  |真《ま》っ|直《す》ぐなはずの路地なのに、やたらと地面がグラグラ揺れて体のあちこちを壁にぶつけた。走りながら携帯電話のボタンを押したが、指が|震《ふる》えて何を押したか良く分からなかった。一一〇かもしれないし一一九かもしれないし一一七や一七七かもしれない。とにかく押した。コール音が何回か鳴り|響《ひび》いて、ブツッというノイズが聞こえた。  ようやく|繋《つな》がった! と勢い込む上条だったが、電話の向こうから聞こえてきたのは『つー、ツー』という冷たい電子音だけだった。  上条は携帯電話を耳から離し、画面を見る。  圏外だった。上条は思わず携帯電話を投げそうになった。 携帯電話は意外に不便なものなんだな、と上条はぼんやりと思った。  助けを呼ぼうと携帯電話を使ったのだが、狭い路地では圏外と表示された。仕方がないから|上条《かみじよう》は路地を出て、古本屋の前からもう一度携帯電話を使って一一九を押した。  何をしゃべったかは自分でも分からない。  ただめちゃくちゃな、説明にもなっていない何かを叫んでいた事は、携帯電話の|履歴《りれき》に残った一一九という珍しい番号として記録されていた。  表通りは相変わらずの日常が広がっていて、路地一本入った所に|破壊《はかい》された女の子の死体が転がっているだなんて話は|誰《だれ》も信じないだろうと上条は思う。 「……、」  上条は手の中にある携帯電話に視線を落とす。  本当なら|美琴《みこと》にも知らせるべきなんだろうが、携帯電話の番号が分からない。たったそれだけの事もできない今の自分が、上条には途方もなく無力に感じられた。  上条の手の中の黒猫があくびをする。  一一九に電話したはずなのに、やってきたのは警察だった。  体内時計が狂い始めている上条には、彼らが通報してからどのぐらいの時間をかけてやってきたのか、それがいまいち分からなかった。一時間以上|経《た》っているような気もするし、ほんの一〇秒ぐらいのような気もする。  携帯電話の画面を見ると、三〇分経ったらしい。  最初、上条は携帯電話が|壊《こわ》れたのかと思ったが、空を見上げると紫色から夜の|蒼《あお》へと色彩が変化していた。チラチラと|瞬《またた》く星の明かりを上条はぼんやりと眺める。 「……、」  上条は、やってきた警察を無言で観察した。  警察というよりは、正確には|警備員《アンチスキル》だった。能力者ではなく、次世代兵器で身を固めた兵士という感じだ。今も『暴走した能力者による殺人』を|考慮《このつりよ》しているのか、窓のないワゴン車から降りてきた一〇人近い|警備員達《アンチスキルたち》は|漆黒《しつこく》のヘルメットと特殊|繊維《せんい》のスーツに守られた、何かロポットみたいな格好をしていて、手には|得体《えたい》の知れないライフルのようなものが握られている。民間人の保護よりも犯人の確保を優先しています、と豪語しているような装備だった。 「……、君? 君!」  上条がぼんやりしていると、不意に|警備員《アンチスキル》の一人に声をかけられた。上条は首を|傾《かし》げる。電話では声だけで、顔までは分からないはずなのに……と思って辺りを見回してみると、|警備員達《アンチスキルたち》は散り散りになって辺りの人達に片っ端から声をかけているようだった。 「あ、通報したのは|俺《おれ》です。けど、警察じゃなくて救急車を呼んだはずなんですけど」 「そうか。事件性がある場合は自然と警察にも連絡は行くようになっている。おそらくこちらの方が早く着いたんだろう。それで」|警備員《アンチスキル》は上条の顔を見て、「……現場の路地、というのはあそこかな? それと、中の様子はどうなっているか、少しで良いから説明してくれると助かるんだが」  |上条《かみじよう》は一度、目を閉じる。  路地裏で見た、あの光景がまぶたの裏にこびりついているような、そんな|錯覚《さつかく》がした。 「……。人が一人、死んでます」  そして、上条は言った。  自分でも|驚《おどろ》くほど冷静な声だったのが|痴《かん》に|障《さわ》った。 「全身を、ズタズタに引き裂かれている感じで。……凶器とかは、分からないです。もしかすると、何かの『力』なのかも」  一言一言、告げるたびに何かが込み上げてきた。  今まで|麻痺《まひ》していた感覚が戻っていくような、|嫌《いや》な感覚だった。 「その子、|俺《おれ》の知り合いなんです。出会って二日ぐらいしか|経《た》ってないけど、写真を見せられれば|誰《だれ》だか分かるぐらいには顔見知りだったんです。ああ、やだな。何で俺、こんなに冷静なんですか? もっと取り乱したって良いじゃないですか。なのに、何で、こんな……ッ!」 「もういい」|警備員《アンチスキル》は小さく首を横に振った。「きっと君は、最善の選択をした。だからこそ、我々がここにいる。君は決して、何もできなかった訳じゃない」 「……、俺は、逃げたんですよ?」  それでもだよ、と|警備員《アンチスキル》は言った。  ただの気休めに過ぎない事は、上条だって分かっている。それでも、その言葉は歯止めになった。上条が決定的に|壊《こわ》れてしまう前に、かろうじて踏み|止《とど》まれるだけの。 「本来なら発見者にも同行してもらいたい所だが、どうする? その状況を見ると、|無理強《むりじ》いはできないようだが」  |警備員《アンチスキル》の言葉に、上条は背筋に|悪寒《おかん》が走るのを感じた。血と肉と臓物の光景が、閉じたまぶたの裏に張り付いているようで指先がぞわぞわと|痺《しび》れる。  それでも、 「……、行きます」  上条は黒猫を抱えて、ゆっくりと言った。  理由なんて知らない。だけど、上条はもう、逃げたくなかった。  またあれを見るのか。  上条はそう思うと|身震《みぶる》いした。身震いしたが、路地の中に入らない訳にはいかない。あの|闇《やみ》の中で、一体何が起きたのか。それを確かめない訳にはいかない。  身を固める|警備員達《アンチスキルたち》を|盾《たて》にする形で、上条は路地裏へ先導された。 (……、あれ?)  だが、路地に一歩踏み込んだ|瞬間《しゆんかん》、|上条《かみじよう》は|違和感《いわかん》を覚えた。  靴がない。  そう、上条は最初、路地の入口に女の子向けの|革靴《ローフア》が片方転がっているのを見たはずだ。そして路地の先に進むと、さらにもう片方の靴が転がっていたはずだが……。  上条は後ろを振り返った。路地の入口には、確かに片方だけ靴が転がっている。  だが、路地の先に落ちていたはずの、もう片方の靴がどこにも存在しない[#「もう片方の靴がどこにも存在しない」に傍点]。 (……?)  上条の腹の中に何か重たいモノが落ちた。だが、|警備員達《アンチスキルたち》はどんどん先に進んでしまう。今度は壁の傷と空の|薬莢《やつきよう》が転がっていたはずだ。そう[#「そう」に傍点]、そのはずだ[#「そのはずだ」に傍点]。なのに、薬莢がない。まる で|誰《だれ》かに掃除されたみたいに、汚い地面には何一つ落ちていない。壁についた傷は何かに削り取られていた。『傷』そのものは消せないが、それが『何によってつけられた傷』かは分からないように。まるで、何かから必死に隠そうとしているように。 (……、ちょっと待て)  上条は|嫌《いや》な予感がする。胃袋に重圧が落ちる。立ち止まって一度考えたいのに、どんどん先 に進んでしまう|警備員《アンチスキル》。|皮膚《ひふ》の下を虫でも|這《は》っているような嫌な感覚がした。消えていた革靴と薬莢、明らかに人の手で削り取られていた壁の傷。バラバラだった言葉が、何か|得体《えたい》の知れない化学反応を起こして一つの意味を作り出そうとしているような気がする。  上条は立ち止まりたい。だが立ち止まれない。先に進む|警備員《アンチスキル》に見えないロープで引きずられるように、上条の足はずるずると前へ進んでいく。  そして、ようやく|辿《たど》り着いた。  上条の呼吸が止まる。  辺り一面は血まみれで、その中に沈むように|御坂《みさか》妹が絶命していた殺人現場。 そこに、あるはずの死体がどこにもなかった。      7  死体だけではない。  地面はおろか左右の壁まで染め上げていた真っ赤な血は、ガラスについた汚れを|拭《ふ》き取るように|綺麗《きれい》に消えていた。辺りに飛び散った肉片や髪の毛すら残らずなくなっていた。周囲には血の|匂《にお》いさえしない。肉片の香りすら残っていない。まるで最初から死体なんてなかったように、とにかく始めから事件なんて起きていなかったように。 「え?」  初め、上条が出したのは|驚《おどろ》きの声だった。  立ち止まった|上条《かみじよう》に、先行していた|警備員達《アンチスキルたち》が振り返る。 「どうかしたのかな。何か気になる点でも?」 「いや、そうじゃなくって」とりあえず、上条は地面を指差した。「そこ、です。そこに、死体が、あった、はずなんですけど」 「なに?」  と、|警備員《アンチスキル》は地面を見る。だが、当然そこには死体どころか血の一滴すら存在しない。特に何かで|拭《ふ》いたような、|濡《ぬ》れた跡もない。  |警備員《アンチスキル》達はお互いのヘルメットを見合った。何か、|嫌《いや》な空気が漂う。肩から力を抜いている者もいれば、中にはあからさまに上条を|睨《にら》みつけている者までいる。 「ちょ、待ってください!ここでホントに入が死んでたんです!」 「分かった」|警備員《アンチスキル》の一人は上条の顔を見て、「君が見たモノが本物だったとして、それは本当にここなのか? |記憶《きおく》が錯乱していて、|他《ほか》の場所と|勘違《かんちが》いしている、という事は考えられないか?」  言葉こそは|優《やさ》しかったが、炭酸が抜けたように真剣味に欠けた言葉だった。上条には、まるで|興奮《こうふん》して手に負えない酔っ払いをなだめているような口調に聞こえた。  何が起きた……、と上条は絶句した。  あれはただの幻覚だったのか。もし、あれが幻覚だとしても、そうすると古本屋の前で待っていたはずの|御坂《みさか》妹はどこへ消えた? 上条は携帯電話を取り出した。一番手っ取り早く『幻覚』か『現実』かを見分けるには、御坂妹に連絡を取って確かめるのが簡単だ。電話が無事に|繋《つな》がれば御坂妹は『生きている』のだから。  だが、上条は御坂妹の携帯電話の番号なんて知らない。  電話をかける。たったそれだけの事ができない上条は、後は一人で予測するしかない。 「……、」  上条はその場で凍り付いていた。  目の前の光景はあまりに|徹底《てつてい》した『日常』であって、自分の中にある記憶の方が疑わしくなってくるほどだった。そして実際、記憶が疑わしい方が上条も嬉しいのだ[#「記憶が疑わしい方が上条も嬉しいのだ」に傍点]。例えば何かの幻覚でも見ていて、上条は警察に向かって訳の分からない通報をしただけ。御坂妹は全然別の場所でのんびりぶらぶら歩いていて、黒猫の事を思い出してひょっこり上条の元に現れる。そんな未来の方が望ましいに決まっている。 (……、くそ。どうなってるんだ?)  御坂妹は死んでいない方が|嬉《うれ》しい。なのに、さっき見た現実を『幻覚』の一言で否定する事にためらいを覚える———そんな、奇妙な|矛盾《むじゆん》が上条の心を|蝕《むしば》んでいく。 「どうなってるんだよ、くそ!」  ついに耐えられなくなって、上条は|警備員《アンチスキル》を押しのけるように路地の先へ走った。後ろで呼び止める声が聞こえたが、おそらくは追っては来ないだろう。あの|警備員達《アンチスキルたち》は、もう|上条《かみじよう》がイタズラ電話をした、という方向で話をつけようとしている。  腕の中の黒猫がみー、と鳴いた。  暗い路地を走りながら、上条は自分が何を探しているのかも分からない状態だった。とにかく『何か』を探している、しかしその『何か』が分からない。その訳の分からない、モヤモヤしたものを吹っ切るために走っているだけのようにも見える。  暗く腐ったような路地裏を走り続けると、T字路に差し掛かった。道が左右に分かれている。右の道は相変わらず|闇《やみ》が続く細い路地だが、反対に左の道からは街灯の光が差し込んでいた。おそらく表通りと|繋《つな》がっているのだろう、まるでトンネルの出口のように見える。  心情的には、上条は左の出口を欲していた。  けれど、この裏路地から出る事が、そのまま何かを|諦《あきら》めてしまうような気がして、上条は右の暗闇へと向かった。  さっきよりはやや広くなり、『|隙間《すきま》』からかろうじて『道』と呼べるようになった路地裏は、逆に言えばスペースに余裕ができたせいか、ポリバケツや使わなくなった自転車など、様々な物が乱暴に置かれていた。横倒しになったビール|瓶《びん》のケースや水を吸ったようなダンボール箱から様々な液体が地面に流れ、混ざり合い、何か粘液じみたものに合成されている。  そして、その粘液を踏んだらしい足跡が、道の奥へと伸びていた。  上条が足跡を目で追い、暗闇の先を見ると、闇の中で何かがゴソリと動いた。  誰《だれ》かがいた。  上条はギョッとした。心臓が|潰《つぶ》れたかと思うほど|驚《おどろ》いた。  黒猫が苦しそうにバタバタ暴れた。|緊張《きんちよう》のあまり手にかける力が増加したのかもしれない。 「誰だ!」  上条は叫んでみたが、本当にその人物が誰なのか分かっていなかった。  闇の中の誰かは、声に気づいて上条の方を見た。  意外にもそれは上条よりも背が低かった。女の子のようにも見える。だが、その肩に|担《かつ》いでいる寝袋のようなものがあまりに|不吉《ふきつ》だった。そう、寝袋。意識のない人間を詰め込んでおくための袋。その『誰か』の肩を支点にくの字に折れ曲がった寝袋は、何かぐにゃりと力を失った女の子のシルエットのように見えた。 (何だ、あれ……?)  上条は、そのあまりにも生々しいシルエットに思わず絶句した。生きた人間を詰め込んだ……というよりは、まるで分解されたマネキンのパーツをごちゃごちゃと放り込んだような感じだ。全体としてのシルエットが崩れているのに対し、布地を内側から押し上げる手首やくるぶしなどの部品部品が妙に生々しいのだ。  そして、上条は見た。  |暗闇《くらやみ》にいたために今までシルエットしか見えなかった『|誰《だれ》か』。明らかに人が詰まった寝袋を抱えた『誰か』。  |上条《かみじよう》は見た。  それは、|拭《ぬぐ》い去られた闇の向こうにいた『誰か』は、 御坂妹だった。 「な……?」  あまりの光景を前に、上条は凍りついた。腕の中の黒猫が親しげな鳴き声をあげるのが、逆に奇妙だった。  それは、間違いなく|御坂《みさか》妹だった。  肩まである茶色い髪に、おでこの辺りには軍用ゴーグル。|半袖《はんそで》の白いブラウスにサマーセーターとプリーツスカート。まるで型に取って作り直したように、彼女はそこに立っていた。  上条には意味が分からない。意味が分からないが、 「申し訳ありません、作業を終えたらそちらへ戻る予定だったのですが、とミサカは初めに謝罪しておきます」  その視線、その仕草、その|雰囲気《ふんいき》、その口調———それは間違いなく彼女のものだった。 「おい、ちょっと待て。お前は御坂妹で良いんだよな?」  そうなると、上条が見たのはやはりリアルな幻覚だった、というだけの事だったんだろうか? 何か|釈然《しやくぜん》としない上条だったが、現にこうして御坂妹はいつも通りの姿で立っている。  上条はへなへなと地面に崩れそうになる。 「ちくしょう、結局何だったんだ?」上条は吐き捨てるように、「あー、悪い。お前にとっちやものすごく気分が悪い話だろうけどさ、今の今までちょっと、お前が危ない目に|遭《あ》ってるんじゃないかって思ってたんだ。けど、良かった。お前、何ともないみたいだし」 「……いまいちあなたの言動には理解しがたい部分があるのですが、—————」  まぁ理解できないだろうな、と上条は思う。何でそんな幻覚を見たのかは良く分からないが、とにかく御坂妹が無事ならそれで良いかと上条が思っていると、 「—————ミサカはきちんと死亡しましたよ、とミサカは報告します」  は、と上条の呼吸が凍った。  目の前には御坂妹がいる。だが、そう言えば彼女が肩に|担《かつ》いでいる寝袋は一体何なんだろう、と上条は遅まきながら気づいた。まるで|壊《こわ》れたマネキンでも放り込んだような、どこか造形の狂った、関節の向きがおかしいシルエット。  あの寝袋の中には何が入っているんだろう、と|上条《かみじよう》は寝袋に目を向ける。と、何かが視界に飛び込んできた。寝袋のファスナーの部分から、何かがはみ出している。まるで雑草のように、ファスナーの合間から|覗《のぞ》いているのは、茶色い  髪。  上条は絶句した。|得体《えたい》の知れない|悪寒《おかん》が全身を駆け巡る。  リアルな等身大の人形でも|担《かつ》いでいるんだろうか、と上条は思う。だが、その茶色い髪にはあまりにも見覚えがある。そう、色や|艶《つや》といった何もかもが、その寝袋を抱えている少女と全く同じものなのだ。 「ちょっと、待て。お前、一体なに抱えてんだ? その寝袋、一体何が入ってんだよ」 「……? 分からないのですか、とミサカは逆に聞き返します。『実験場』に入っている時点で本実験の関係者かと思いましたが……そうですね、確かにあなたは実験との関連性は|薄《うす》そうに見えます、とミサカは直感で答えます」 (実験……?)  訳の分からない|御坂《みさか》妹の言葉に上条は少し|黙《だま》り込み、 「念のために|符丁《パス》の確認を取ります、とミサカは有言実行します。ZXC741AS852QWE963'とミサカはあなたを試します」 「な、に? お前、さっきっから何言ってんだ?」 「今の符丁を|解読《デコード》できない時点であなたは実験の関係者ではなさそうですね、とミサカは自分の直感に論理的な証拠を付け加えます」  目の前にいる御坂妹の言葉が、上条にはまるで宇宙人の言語のように聞こえる。  上条は|訂《いぶか》しむように御坂妹を見るが、 「その寝袋に入っているのは|妹達《シスターズ》ですよ、とミサカは答えます」  上条の疑問に答えたのは、間違いなく御坂妹の声だった。  だが、カツン、という足音は御坂妹の背後から鳴り響いた。  声のした場所が|何故《なぜ》か御坂妹の立っている場所より遠い。まるで路地のずっと奥から飛んできたような声だった。  そして事実、上条の感覚に間違いはなかった。カツコツと、ただカツコツと足音を|響《ひび》かせて、御坂妹の後ろから|誰《だれ》かが近づいてくる。 「黒猫を置き去りにした事については謝罪します、とミサカは告げます」  暗闇の向こうからやってきたのは———御坂妹と全く同じ造形をした少女だった。 (何だ? 御坂妹と同じ顔……って事は、こいつは|美琴《みこと》か?) 「ですが、無用な争いに動物を巻き込む事は気が引けました、とミサカは弁解します」  だが、違う。足音は一つではない。 「あなたについても同様に謝罪をしておきましょう、とミサカは頭を下げます」  二つ、三つ、四つ、五つ六つ七つ八つ九っ一〇———と際限なく足音は増えていき、 「どうやら本実験のせいで無用な心配をかけてしまったようですね、とミサカは」「しかし心配なさらずとも」「警察に通報したのもあなたという事に」「それは適切な判断」「黒猫は|大丈夫《だいじようぶ》でしたか、とミサカは問い」「ここにいるミサカは|全《すべ》てミサカです、と」「しかし私が本当に殺人犯だったらどうするつもりだったのですか」「詳細は機密事項となっているため説明できませんが、とにかく事件性はありません、とミサカは答えます」 「……あ?」  |上条《かみじよう》は、後から後から現れる『ミサカ』|達《たち》に思わず後ろへ下がった。どすん、と背中に何かがぶつかる。振り返ると、そこにも同じ顔をした『ミサカ』達が無表情に上条を見ていた。 「何だ、これ……?」  上条は目の前の光景に絶句しながら、これまでの事を整理する。  上条が見たのは幻覚ではなく、同じ顔をした『ミサカ』の一人が殺されたという事なのか。その死体を|御坂《みさか》妹が|担《かつ》いでいる所を見ると、どうも死体の|隠蔽《いんぺい》も彼女達が行っているようだが。  確かに、血液なんて|凝固剤《ぎようこざい》とドライヤーの熱風でも使えば、一分前後で簡単に固められる。 後はてんぷら油を薬品で固めて捨てるのと同じように処分できるし、その他の指紋やルミノー ル反応も薬を使えば簡単に消す事ができる。  だけど、何かがおかしいと|上条《かみじよう》は思う。  そもそもの発端として、同じ顔をした人間がこんなにたくさんいる事がおかしい。  一卵性双生児———いわゆる『似ている双子』というものは、確かに遺伝子レベルで同じ骨格を持った兄弟だ。しかし、実際にはドラマや小説にあるような『全く同じ顔をした人間』というものではない[#「ではない」に傍点]。  例えば田中さんという仮の人がいたとする。この田中さん、野球選手を目指すために毎日トレーニングをした場合と、何も考えずお菓子ばかり食べている場合では、『筋肉』や『脂肪』のつき方は当然変わってくる事だろう。  睡眠、運動、食生活、ストレス————生まれた時は同じでも、生活リズムが変われば人の体格は当然変わってしまう。そして、一〇年一五年と生きてきて、いつでも同じ睡眠と運動と食生活を、定規で測ったように守り続ける事なんて普通はしない。  ところが、目の前の少女|達《たち》はあまりに似すぎていた。  |御坂美琴《みさかみこと》という一人の少女に、あまりにも|酷似《こくじ》していた。  時計で測ったような睡眠時間、定規で計ったような運動量、|秤《はかり》で|量《はか》ったような食事量。  そう、まるで何もかもを精密機器で計測して、御坂美琴に合わせるような。 まるで、|誰《だれ》かに作られたような。 「………………………………………………………………………………………………………」  上条はぐるりと周囲を見回した後、もう一度寝袋を見た。  彼女達は上条の事を知っているようだった。黒猫の事も知っているようだった。しかしそうなると上条には分からない。今まで、御坂妹だと思っていた少女は誰だ? 今もこの中にいるのか、それとも|他《ほか》にも大勢の『ミサカ』がいるのか。まさか、寝袋の中に詰め込まれた少女が、やはり彼女こそが今まで上条と接していた『御坂妹』では 「ああ、心配なさらず、とミサカは答えます」  |愕然《がくぜん》に凍る上条に話しかけたのは、寝袋を抱えた『ミサカ』だった。 「あなたが今日まで接してきたミサカは|検体番号《シリアルナンバー》一〇〇三二号、つまりこのミサカです、と答えます」御坂妹は空いた手で自分を指差しながら、「『ミサカ』は電気を操る能力を応用し、互いの脳波をリンクさせています。他のミサカは単に一〇〇三二号の|記憶《きおく》を共有させているにすぎません、とミサカは追加説明します」  脳波のリンク———にわかに信じられない話だが、双子なら可能性はある。脳波は指紋や声紋と同じく、個人個人で異なるものだ。自分の脳に他人の脳波を流したって脳細胞が|破壊《はかい》されるだけである。だが、遣伝子レベルで同じ人間同士ならば……。  しかし、そんな事はどうでも良いと|上条《かみじよう》は思った。  お前は|誰《だれ》なんだ、と上条は問いかける。 「学園都市で七人しか存在しない|超能力者《レペル5》、|お姉様《オリジナル》の量産軍用モデルとして作られた体細胞クローン———|妹達《シスターズ》ですよ、とミサカは答えます」  お前は何をやってるんだ、と上条は問いかけた。 「ただの実験ですよ、とミサカは答えます。本実験にあなたを巻き込んでしまった事には重ねて謝罪しましょう、とミサカは頭を下げます」  お前は……、と言いかけて、ついに上条の口が止まってしまった。  目の前にいる少女はあまりにも違いすぎて、あまりにも遠すぎた。  上条は一人、黒猫を抱えて路地の壁に背中を預けていた。  たくさんいた『ミサカ』|達《たち》は|闇《やみ》に溶けるように姿を消していた。おそらく死体は運び出され、証拠となる証拠は根こそぎ取り除かれている事だろう。そして、これからも『実験』は続く。 それがどんなものかは分からないけど、上条の知らない所で『ミサカ』達は殺され、上条の知らない所へ運ばれていく事だろう。  体細胞クローン、という言葉に上条は思わず吐き気がした。古本屋で偶然見つけた本の背表紙が脳裏に|蘇《よみがえ》る。『最新! 牧場ビルの科学牛』。窓のないビルの中、空調の|利《き》いた空気を吸って栄養剤を飲んで、食うために育てられる命達。腹を裂かれ臓物を引きずり出され細切れにされて、パック詰めにされた肉片が街中のスーパーや肉屋にばら|撒《ま》かれる光景。うっ、と上条は|喉《のど》の奥に|酸《す》っぱい胃酸の味を覚えた。当分、肉など食えるかと本気で思う。  だが、世の中にはそんな事など気にも留めない合理主義者達がいる。牛を殺し腹を裂いて臓物を引きずり出し、細切れにした肉片をパック詰めにする感覚で人を殺すような連中は、きっと顔色一つ変えずにこれからも『実験』を続けていく事だろう。その『実験』がどんなものかは知らない。そんなおぞましいもの、説明されたって理解できるかどうかも分からない。それでも確実に言える事は一つ。この『実験』が長引けば、それだけ多くの人間が死に続ける。 (……、実験?)  と、上条はそこで何か引っかかるモノを感じた。  そう、実験。確かに御坂妹は実験と言った。つまり、彼女達の背後には何らかの研究機関があるという事だろうか? そう考えれば、体細胞クローンという専門用語も|納得《なつとく》がいく。体細胞クローンというのは普通に赤ちゃんを作るのとは異なり、髪の毛一本、血の一滴から遺伝子 を抜き取って作り出す方法————と、ここまで考えて、上条はピタリと動きを止めた。  髪の毛一本。  そう、体細胞クローンを作るという事は、素材となる遺伝子が必要になる。髪の毛一本、血の一滴で構わないが、とにかく素材がなければ話にならない。  |御坂《みさか》妹は、自分|達《たち》は御坂|美琴《みこと》の軍用量産モデルだと言っていた。 (まさか……、)  |上条《かみじよう》の呼吸が止まる。絶望的な考えに、思わず四角く切り取られた夕空を仰いだ。 (……御坂美琴は、この事を知ってたって言うのか?)      8  今夜は焼肉だった。  見た目一二歳の|小萌《こもえ》先生は台所でスーパーの特売で買ってきた|豪華絢燗《こうかけんらん》焼肉セット一二〇〇〇円を眺めていた。同居人が増えたせいもあり、いつも食べている|百花練乱《ひやつかりようらん》焼肉セット八〇〇〇円よりワンランク上位なのだった。  ちなみに部屋に同居人が増える事自体は、小萌先生にとってそれほど珍しい事ではない。小萌先生は根っからの教育者なので、家出少女を拾ってきて、自分のやりたい事を見つけられるまで仮の居場所を作ってやる事が『|趣味《しゆみ》』なのである。 (……一番最近の|誘波《いざなみ》ちゃんは一ヶ月前にパン屋さんの修業に出かけてしまったので、冷静になると結構、 一人身の時間は長かったんですねー)  小萌先生は味の違いを比べてみるべく数種類の缶ビールを冷蔵庫から取り出す。  焼肉がいつの季節の風物詩なのか、|小萌《こもえ》先生は良く分からない。今のご時世、どんな食べ物も年中無休で手に入れる事ができるからだ。  だが、見た目一二歳なのにビールの違いが分かる女教師、小萌先生にとって焼肉とは断然夏に食べる物だった。しかも今日はお肉を焼かせる係は家賃ゼロで下宿している同居人に任せてしまおうと決めていた。端的に言うと今夜の小萌先生はビールを飲みながら菜ばしでやってくるお肉を食べるだけの人であって、それはつまりちょっとした王様気分なのだった。  ちなみにその同居人、|姫神秋沙《ひめがみあいさ》は部屋の真ん中に置いてあるちゃぶ台の前で鉄板の用意を終え、食欲という名の|煩悩《ぼんのう》を殺すべく|結珈跣坐《けつかふざ》の行を執り行っていた。結凱跣坐、などと聞くと |仰《ぎようぎよ》々しく|聞《う》こえるかもしれないが、ようはあぐらをかいて『ご飯まだー?』と空腹に耐えているだけである。  小萌先生は焼く前のお肉に下味をつける派である。  人によって好みはバラバラだが、小萌先生は焼く前のお肉にタレをつけ、さらに焼いた後にもタレをつける二重構造を愛していた。  当然、タレのついた肉を焼けば鉄板や部屋の中は煙や|匂《にお》いでとんでもない事になる。だが、小萌先生は気にしていなかった。元々この部屋は(|何故《なぜ》か)畳や壁に変な|魔法陣《ラクガキ》が描かれ、畳は刀のようなもので切り裂かれ、|血痕《けつこん》があちこちに残り、壁に|焦《こ》げ目がついて、挙げ句の果てには何かビーム兵器じみたモノで壁と|天井《てんじよう》を|破壊《はかい》されていた。一応、ベニヤ板で補修してあるものの、今さら敷金も礼金もクソくらえな状況だった。 (……、うう。明日こそ|上条《かみじよう》ちゃんをとっちめて何があったか聞き出すのです)  はあ、とため息をついた|小萌《こもえ》先生だったが、気を取り直してお肉の大皿を抱えてちゃぶ台へ向かった。|姫神《ひめがみ》はお肉に大目のタレをつけてご飯と一|緒《いつしよ》に食べる派なのか、すでに自分の手元に炊飯ジャーを確保している。 「さあ、それじゃ鉄板に火を入れますよI? 姫神ちゃんはじゃんけん負けたので菜ばし持って強制労働なのです、さあ小萌先生のためにちゃっちゃとお肉焼いちゃってくださいー」 「うん。けどその前に。学園都市であった|恐《こわ》い話を一つ」 「……、小萌先生は七不思議程度で泣き出す|真似《まね》はしないのです。というか小萌先生自体が七不思議の一つであるまいかという不名誉な意見まであるので平気へっちゃらなのですよ?」  と言っても、学園都市に伝わる|都市伝説《ななふしぎ》はオバケの出てくる|恐い話《オカルト》というよりは、UFOの存在を隠す|政府陰謀説《トンデモサイエンス》の毛色が強い。  学園都市における都市伝説とは、簡単に言うと|虚数学区・五行機関《プライマリー=ノーリツジ》に関係する事がほとんどである。  何でも、学園都市の起こりは、たった一つの研究所だったとか。それが職貝の社宅や保養施設、関連研究所などを増設させていく内に、いつしか一つの巨大な街へと肥大化したのだと。  だが、今となっては『始まりの研究所』が街のどこにあるのか|誰《だれ》にも分からない。  一応|都市伝説《ウワサぱなし》だけなら色々ある。例えば、そんな何十年も前の研究所は人知れず|潰《つぶ》れているとか。例えば、研究所は地下深くに隠されているとか。例えば、毎日見ているのに何の変哲もない学校に偽装されているから誰も気づかないとか。例えば、特殊な能力や架空技術によって何か空間のズレた所に研究所は隠されているとか。  七不思議、と呼ぶには語り部によって一〇〇も二〇〇もパターンが変化するウワサ話だが、そのどれもが、たった一つの裏づけすら得られない状態なのだ。  確かに実在するはずなのに、誰もその存在に気がつかないモノ。  現存する学園都市の二三の学区、その|全《すべ》ての数字に当てはまらない、  虚数学区・五行機関。  で、派生系として『|見えない研究所《きよすうがつく》』には様々な架空技術のウワサが存在する。  いわく、AIがネットを介して世界中の倫理・軍事・経済の全てを統括しているとか、  いわく、世界中の偉人・聖人のDNAを保管し、その解析の結果、ボタン一つでいくらでも天才を製造できる『|才人工房《クローンドリー》』があるとか、  いわく、『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』の|演算回路《エンジン》に使われる|珪素性シナプス《シリコランダム》は虚数学区の架空技術でしか生成できないため、現在ではもう再現不可能であるとか、  いわく、虚数学区の探索を進める専門の|捜索部隊《ハウンドドツグ》が|暗躍《あんやく》していて、虚数学区の|謎《なぞ》に近づいた者は彼らに|拉致《らち》られて情報収集のために|拷問《ごうもん》を受けるとか、 (いわく、虚数学区では不老不死の研究が完成していて、そのサンプルが|小萌《こもえ》先生だとか。って、いくら何でも|人権侵害《あんまり》ですよー……)  小萌先生はビール片手にこっそりため息をついた。  そんな小萌先生とちゃぶ台越しに向かい合う形で、|姫神《ひめがみ》は両手をパタパタ振って、 「それで。|恐《こわ》い話恐い話」 「あーもーちゃっちゃとやっちゃってくださいちゃっちゃとー」 「うん。それでは一つ。焼肉のお|焦《こ》げに含まれる多核芳香族炭素。実は発ガン性物質」 「ちょ、そんな本当にあった恐い話は夏の風物詩じゃないです!」 「今さら気にする必要もなし。どうせ知らない間にいっぱい食べてる」 「あんまりですー、こっちの食欲を削ってお肉を独占する計画ですか姫神ちゃん!」  と、心理戦に|翻弄《ほんろう》される小萌先生はピンポーンというインターホンの音を聞いた。 「む、お客さんみたいです。どうせ回覧板かと思いますが姫神ちゃん、|丁寧《ていねい》に応対してあげてください。先生はその間に勝手にお肉を焼いて勝手に食べちゃいます」  むっすー、とご|機嫌《きげん》ナナメな小萌先生を見て、姫神は音もなく立ち上がる。そのままドアへ向かおうとして、ふと振り返り、 「その缶ビール。アルミ缶には金属毒があるので。いっぱい飲むと少しずつ体内に毒が蓄積されていく。ローマ帝国が滅んだ理由の一つも。金属食器の使いすぎだったはず。ふふ」  食欲をゼロまで帰され顔全体を使って泣きそうな表情を作る小萌先生。 「それから」 「……まだ何かあるんですかー?」 「今日の焼肉係は私だから。小萌先生はお肉を食べるだけで良い」  姫神はドアの前に立ち、|覗《のぞ》き穴から外を見るために身を|屈《かが》めた。この辺りの新聞|勧誘《かんゆう》は過激派じみているので、最悪の場合はドアチェーンをかけた状態でわずかにドアを開け、玄関横の壁に立てかけてある|魔法《でんどう》の|ステッキ《ガスガン》(注・ちなみに一九九三年、あまりの|破壊力《はかいりよく》の高さに国会で発禁決議済み。別名『|西瓜割り《ヘッドクラツシユ》』)をドアの|隙間《すきま》にねじ込んでフルオート|射撃《しやげき》で追い返すしかない。  だが、覗き穴から見た外の景色には、|誰《だれ》もいなかった。 「?」  誰かのイタズラだろうか? と姫神は念のためにガスガン装備でゆっくりとドアを開けた。外側へ開いていくドアは、けれど何かにぶつかったようにゴン、と音を立てて止まる。  ブロックでも置いてあるのか、と姫神は視線を下に落とす。  そこに純白のシスターが倒れていた。ドア板に頭がぶつかっている。彼女のすぐ近くで丸まった|三毛猫《みけねこ》が|呑気《のんき》に|尻尾《しつぽ》を振っている。 「ォ—————おなか、へった」  行き倒れの住所不定無職がなんか言っていたが、|姫神《ひめがみ》はそのままドアを閉めた。  あれー? |誰《だれ》だったんですかー? と言う|小萌《こもえ》先生の声。  何でもない、と本当に何の気なしに姫神が答えた|瞬間《しゆんかん》、最後の力を振り絞ってドアがバン バン|叩《たた》かれた。仕方がないので姫神はもう一度ドアを開けてみる。白いシスターがせめて|三毛猫《みけねこ》だけでも、と両手で抱えたスフィンクスを差し出してきたので、何となく可哀相《かわいそう》になってきた姫神は結局インデックスを部屋に入れてみる事にした。 「と、とうまがいつまで|経《た》っても帰ってこないから飢えて死ぬかと思ったんだよ」  ぐったりしながら白いシスターは言う。早くもちゃぶ台の前に座り、勝手に入手した菜ばしをグーで握っている。人の家の食卓に上がりこんで何の|違和感《いわかん》も感じさせない、というのは一つの才能ではないだろうか、と姫神は思った。ちなみに三毛猫は正座するインデックスのピザの上に乗って、|天井《てんじよう》を見上げながら小さな口を開いている。どうやらインデックスがポロポロ落とすご飯を|掠《かす》め取る戦術らしい。  急な来客があったが、それぐらいで量に不満が残る|豪華絢瀾《こうかけんらん》焼肉セット一二〇〇〇円ではない。|箸《はし》の持ち方も分からないインデックスを交え、なんだかんだで結局世話好きスキル全開な小萌先生が鉄板の主導権を握る形で焼肉がスタートする。 「超能力とは何なのか、ですかー?」  小萌先生は菜ばしで鉄板上のお肉をひっくり返しながら聞き返した。じっと半焼けのお肉を|凝視《ぎようし》するインデックスは、うん、と言って小さく|頷《うなず》いた。 「簡単に言っちゃえばシュレディンガー理論なんですけどー、そもそもシュレディンガーのお話が|馴染《なじ》みないかもしれないですねー」  肉ばっか食ってないでニンジンも食え、と小萌先生の菜ばしが|誘導《ゆうどう》するが誰もが無視した。 「しゅれでぃんがー?」 「そうです。シュレディンガーさんっていうのは量子力学の先生の名前ですねー。この人はシユレディンガーの猫、というお話を残しています。ペット愛好家の人にとっては果てしなく|残酷《ざんこく》なお話なのでー、ちょっとアレンジしますよ?」  小萌先生は焼き終えたお肉で野菜を包んでインデックスの小皿に載せた。インデックスは迷わず分解して野菜だけを三毛猫に分け与える。だが、三毛猫は猫パンチでこれを拒否。 「ここに一つの箱があります」  言って、小萌先生は空いた手で畳の上に置いてあったチョコの箱を|掴《つか》んだ。 「さて、この中に何が入ってるでしょうか? はいシスターちゃん」 「む。そんなのチョコに決まってるよ。とうまの家にもあったもんそれ」 「しかしこの箱にはアメ玉が入ってるのです」 「何でそんな回りくどい事を……、」 「さて問題ですシスターちゃん。この箱の中には何が入ってるでしょう?」 「さっきアメ玉入ってるって自分で言ったじゃん!」 「そうです。けど開けてみないと分かりません。先生がウソついてる可能性もありますから」 「……、」 「つまり、今この箱の中には『チョコが入ってる可能性』と『アメ玉が入ってる可能性』の二つがある訳なのです。もちろん、箱の中にはどっちかしかありませんよ? けど、可能性の話なら、二つの可能性がごっちゃになってる訳なのですね」  |小萌《こもえ》先生はチョコの箱を軽く振って、 「この二つの可能性は、ブタを開けて中身を確かめた時点で『一つの結果』として現れます。元々チョコ五〇%アメ五〇%だった箱の中身を、『見る』事でチョコ一〇〇%に替えてしまう事ができる、という訳なのです」  はいどうぞ、と小萌先生が箱を開けると、中には小さなチョコが入っていた。 「では仮に」小萌先生はもう一度箱を閉じて、「この箱の中には今、チョコ五〇%アメ玉五〇%の二つの可能性が混ざっています。さあシスターちゃん、この箱の中には何が入っていると思いますか?」 「??? 小難しい事は分からないけど、さっきチョコ入ってるの見たもん」 「そうですねー。普通の人ならこの時点で『チョコ五〇%』を取るしかありません。ですが」 小萌先生は箱を振って、「もし仮に、『アメ玉五〇%』を取れる人がいたとしたら、どうなりますか?」 「むむ? そうなると、箱の中身がアメ玉になっちゃうん————」  言いかけて、インデックスは何かに気づいたらしい。  そう、通常とは違う、何か不思議な現象が起きてしまう。 「超能力の正体とは、まさにそれです。この現実には様々な可能性があります。その中には『手から炎を出す可能性』や『人の心を読む可能性』もあります。それら九九%の常識からあぶれた、たった一%の『異なる可能性』こそが、『異』能力なのです」小萌先生は菜ばしをくるくる回して、=方で、だからこそ異能力は万能ではありません。例えばこの箱の中には『チョコ五〇%アメ玉五〇%』しかないので、ここからガムが出てくる可能性は〇%ですから。元より可能性の『ない』場所や条件では力は使えないのです」 「???」 「私|達《たち》の言う『超能力者』とは、この『チョコ五〇%アメ玉五〇%』の『現実を見る力』が普通の人とはズレてしまった人達を差します。RSPK症候群——俗に言う|騒霊現象《ポルターガイスト》は|心的外傷《トラウマ》や過度のストレスにより『正しく現実を見る事ができなくなった子供達』が引き起こすものですし、能力開発に用いるガンツフェルト実験というのは意図的に五感を封じる事で『通常の現実から切り離す』ものです」小萌先生は菜ばしをくるくる回して、「まともな現実から切り離された『超能力者』は、私達とは異なる『|自分だけの現実《パーソナルリアリテイ》』を手に入れます。その結果、常人とは異なる法則でミクロの世界を|歪《ゆが》め———触れずして物を|破壊《はかい》したり、|瞳《ひとみ》を閉じるだけで一年後の未来が読めたりといった『力』を手にする事ができるのです」  |小萌《こもえ》先生の言葉は異世界の言語じみていて、インデックスには訳が分からない。 「私|達《たち》の行う『|記録術《かいはつ》』とは、人為的に『|自分《パ ソナ》だけの|現実《ルリアリテイ》』を作る事を差します。つまり簡単に言えば、薬物や暗示などを使い、脳にある種の障害を起こす手伝いをしてるんです」  だが、『障害』という言葉がインデックスの胸に突き刺さる。  ある少年は、自分には何の力もないといつも言っていた。何の気なしに、それが当然であるかのように。けれど、その裏ではそれだけの努力を重ねていたのだ。  それは救われない、とインデックスは思う。  そこまでしても何も手に入れられない少年にではなく、何も手に入らなくても、それが当然であると認めて笑っている少年が、あまりにも救われない。 「いや、むしろ|上条《かみじよう》ちゃんみたいなタイプの方が重要なんですけどねー」 「……? とうまの力を知ってるの?」 「まあ、上条ちゃんは入学した時からやんちゃでしたからねー。いろいろあったのですよー、いろいろ。うふふ、うふふふふふ」  やーん、と両手をほっぺたに当ててくねくねしている小萌先生を見てインデックスと|姫神《ひめがみ》は同時に動きを止めた。心の中で思う、またかあの野郎。 「ですけど、上条ちゃんに限らず|無能力《レペル0》と呼ばれる人こそ研究の余地があると先生、個人的には思うのです」小萌先生だけが部屋の空気が変わった事に気づかず、「能力開発と言うのは一定の|時間割《カリキユラム》りを消化すれば|誰《だれ》でも必ず目覚めるはずなのです。にも|拘《かか》わらず、何の力も目覚めない人がいる。それはつまり、まだ解き明かされていない法則がそこにあるはずなのです。も しかすると、それこそがSYSTEMに|繋《つな》がるカギかもしれないのです」 「しすてむ?」 「|神ならぬ身にて天上の意思に辿り着くもの《S   Y   S   T   E  M》———という事です。私達の目的は|超能力《レベル5》の先にあるモノですからー。私達人問には世界の真理は分かりません。ならば話は簡単で、人間以上のステータスを持つ者が現れれば、神様の答えだって理解できるに決まっているのです」 「……、」  ギクリ、とインデックスは動きを止めた。  今の言葉には聞き覚えがある。カバラにはセフィロトの|樹《き》という|概念《がいねん》がある。人間、天使、神様の身分階級を分かりやすく十段階評価した図の事だ。ところがこのセフィロトの樹、肝心の『神様』の事が書かれていない。  |アインソフオウル《0  0  0》、|アインソフ《0  0》、|アイン《0》。  これら『神の領域』は人には理解できず、人には表現できない概念であるとして、セフィロトの樹には描かれていない。  だが、これを逆手に取る宗教体系が現れた。 人間に理解できないのならば、人間を超えた肉体を手に入れれば良いという教義。  人間は精製途中の神であり、己を|鍛《きた》え上げる事で神の肉体を手に入れ神の|業《わざ》を自在に操る事ができると|謳《うた》われる、十二使徒ヨハネさえも危険視した+字教最初の|異端宗派《マーヴエリツク》。  |完全なる知性主義《グノーシズム》。 「あるす。まぐな」  ポツリと言った|姫神《ひめがみ》が、胸元の巨大な十字架に触れた。  そう、かつて|錬金術《れんきんじゆつ》を用いて|黄金練成《アルスハマグナ》に|辿《たど》り着いた男も、系統としてはこれに当てはまる。錬金術における『|大いなる業《アルス=マグナ》』とは『|卑金属《なまり》を|貴金属《おうごん》に変換する』技ではなく、『鉛のようにくすんだ人の|魂《たましい》を、黄金のごとき天使の|魂《たましい》へ昇華させる』術なのだから。  とかく『神様の力を横取りできる』グノーシス主義は道を外れたオカルト側の人間に好まれやすい。だが、それが|何故《なぜ》インデックスの住む教会世界とは対極の学園都市に根付いているのか。人間、考えは違っても結局行き着く先は同じという事なのか。  それとも。 空の色は、もう完全に夜の|蒼《あお》に変わっていた。 (……、そういや、インデックスは|大丈夫《だいじようぶ》かな)  |上条《かみじよう》は|学生寮《がくせいりょう》て待っている(はずの)白いシスターの事を思い出していた。インデックスに料理を作るスキルを期待するのは間違っているので、ひょっとするとお|腹《なか》をすかせて床の上をバタバタしているかもしれない、と上条は考える。  携帯電話で連絡を入れてみようか、とも考えたがやめた。  先週、『三沢塾』からかけた電話をきっかけに、巻き込まれるはずがなかったインデックスが戦場にやってきてしまった事を思い出したからだ。 「……、」  上条はインデックスについて考える事を中断して、改めて気を引き締めた。  |御坂美琴《みさかみこと》を捜すため、まずは|常般《ときわ》皿|台《だい》中学の学生寮に向かった。  学園都市のバス停は『第一二学区・|高崎《たかさき》大学前』や『第二二学区・|静菜《しずな》高校プール前』など学校施設の名前を使っている場合が多い。学園都市を走っているバスは|全《すべ》て学バスなのだから当然と言える。  そして、ぶっちゃけた話が『第七学区・常盤台中学学生寮前』というバス停が存在するのだった。通常、学園都市の学バスは全て最終下校時刻に設定されているが、この路線は夜でも進学塾の夏期講習のための臨時バスが走っているらしい。|流石《さすが》は私立。 「ここか」  上条は黒猫片手にバスから降りると建物を見上げた。周囲は普通にコンクリートのビルが並ぶのに、|何故《なぜ》かそこだけは石造りの三階建てだった。まるで外国にある寄宿舎をそのまま解体して輸入してきたような、妙に歴史のある洋館じみた建物がドカンと建っている。庭のようなモノはなく、雑居ビルと同じように歩道沿いにいきなり建っていた。  建物がやけに|荘厳《そうごん》としているのに、窓から普通に|洗濯物《せんたくもの》が干してあるのが少し笑える。ひらひらするものに反応するのか、黒猫の首が洗濯物に応じて左右に揺れていた。  |上条《かみじよう》は正面玄関に向かったが、予想通り厳重なロックがかかっていた。 見すると両開きの木のドア———に見えるが、おそらく|炭素繊維《カーボンプアイバ》系の特殊素材だろう。どうせトラックが突っ込んだってびくともしないに決まっている。  ドアノブがセンサーになっているらしいのが、古めかしい(ように偽装された)|鍵穴《かぎあな》の奥に光る赤いランプで分かる。おそらく指紋の|他《ほか》にも|皮膚《ひふ》から生体電気や脈拍パターンを調べ、指の脂からDNAコードでも調べる仕組みになっているんだろうと上条は適当に考える。  ドア横の壁には無数のポストが並んでいる。この辺りはマンションの新聞受けと大して変わらない。ポストに書かれた名前を見る限り、|美琴《みこと》の部屋は二〇八号室らしい。  後はインターホンぐらいしかない。こちらもマンションと同じく、電卓みたいなボタンを使って部屋の番号を打つと直通で|繋《つな》がる仕組みらしい。  美琴の部屋に連絡するのは簡単だ。二〇八と番号を打ってインターホンを押せば良い。  だけど、たったそれだけの事に上条の指は止まっていた。  常識的に考えて、あの『実験』に美琴が全く|関《かか》わっていないなんて事は絶対にないだろう。 美琴の体細胞クローンである|妹達《シスターズ》を用意するためには、まず美琴の協力を得て『体細胞』を手に入れなければならないんだから。  そんな美琴に会って、一体何を言えば良いのか。  あの美琴の口から人を一人平気で殺すほどの、おぞましい『実験』の内容を聞く事も|恐《こわ》かった。隠された『真実』を話す美琴の顔を見るのが、恐かった。  黒猫が不安そうに鳴く。  上条は、ジュースの自販機の前で会った人見知りしない美琴の顔を思い出した。  果たして、あれは真実を隠すための『演技』だったのか。  それとも、おぞましい『実験』に協力していながら、|妹達《シスターズ》が死ぬ事を知っておきながら、それでもニコニコ笑っていられるような、異常な『本音』なのか。  どちらにしても、それは上条が思い描いていた『|御坂《みさか》美琴』の像ではない。  虚像は、インターホンを押した|瞬間《しゆんかん》に、粉々に砕け散る。  そして、上条はいつの間にか虚像が|壊《こわ》れてしまう事に|脅《おび》えている自分に気づいた。  理由なんてない。  きっと、美琴と|一緒《いつしよ》に歩いた帰り道が、心地良いと思ったからだろう、 「……、」  それでも押すのか、と|上条《かみじよう》の指が|震《ふる》えた。これを押せば、もう後戻りはできない。なかった事にはできない。後はてっぺんまで昇ったジエットコースターが|滑《すべ》り落ちるように、上条の知らなかった『事実』が|雪崩《なだれ》れ込んでくるに違いない。  上条には、どうして良いか分からない。  どうして良いのか分からないまま、その指はインターホンを押していた。  かっちん、というプラスチックのボタンが押し込まれる音。  ぶつっ、というスピーカーのノイズと共に、異常世界への入口が開いた。 「あ、えっと……、」  なんて言って良いか、分からなかった。  それでも、何かを言わなければならなかった。 「……、上条、だけど。|御坂《みさか》か?」  口をついて出てきた言葉は、ひどく月並みなものだった。  ほんの数秒、相手の声を待つだけの|沈黙《ちんもく》が、上条にはやけに重々しく感じられた。インターホンの向こうで何かノイズが聞こえた。相手が息を吸う音だ。おそらくインターホンの向こうには、いつもの|美琴《みこと》がいる。上条は『実験』の事など何も知らないと、そう思って安心しきっている美琴がいる。  インターホンは少しだけ、ほんの少しだけ|黙《だま》り込んだ後、 『はあ、カミジョーさんですの?』  やけに間延びした、絶対に美琴ではない人物の声が聞こえてきた。 「あ、やべ……部屋番間違えたか?」 『いえ、いえいえ|大丈夫《だいじようぶ》ですの。お姉様に御用がおありでしょう? わたくし、お姉様とは相部屋ですから』  どこかで聞いた事があるような、と上条はちょっと考えて、思い出した。昨日の夕方、美琴の事をお姉様と呼んでいた———|白井黒子《しらいくろこ》とかいう女子中学生だ。 「あー、そう。で、その様子だと御坂は帰ってねーのかな?」 『はい。ですがお姉様ならすぐお戻りになるかと。そこの玄関は門限と同時にセキュリティが働くので』インターホンは間延びした声で、『お姉様に御用がおありでしたら、中に入って待つ事をお|勧《すす》めしますの。行き違いはお勧めできませんもの』  ブツッ、というインターホンの切れる音と共に玄関のロックが外れる音が聞こえた。ガキガキバキン、といくつもの金属音が鳴った所を見ると、どうも何種類ものロックを同時に使っているらしい。結構凶暴な音に黒猫がびっくりしたような顔をした。 (入っちゃって、……)  ……、大丈夫なのかなあ? と首を|傾《かし》げる上条だったが、今はとにかく美琴に話を聞きたいので、同居人の言葉に甘える事にした。  玄関をくぐると、そこは巨大なホールだった。やはり貴族でも住んでそうな内装で、白を基調とした壁や|天井《てんじよう》に、床に敷かれた赤い|絨毯《じゆうたん》がやけに目立つ。単なる成金|趣味《しゆみ》かとも思った が、ここまで色彩が派手だと侵入者の存在が簡単に浮き彫りにされるような気もした。  元々|行儀《ぎようぎ》正しいのか、単に防音効果が高いのか、建物の中は神社やお寺のような静けさに包まれている。玄関ホールから左右へ伸びる廊下を無視して、|上条《かみじよう》は二階、三階の回廊へ|繋《つな》がる 玄関ホールの中の階段へ向かった。ポストを見る限り、|美琴《みこと》の部屋は二〇八号室らしい。おそらく二階のどこかにあるだろう、と上条は適当に考えていた。  階段を昇り、二階の左側の通路を歩く。  二〇八号室はすぐに見つかった。木でできたドアに金文字で番号が振ってある。黒猫が|磨《みが》き上げられたドア板に映る自分の顔と|睨《にら》めっこしている。ホテルの部屋みたいだな、と上条は思った。ついでに言うなら、ホテルと同じく室内のドアにはインターホンがない。  上条が控え目にノックをすると、中から声が返ってきた。 「どうぞ。|鍵《かぎ》はかかっていませんので、ご自分の手で開けてくださいですの」  ドアを開けると、そこはやっぱりホテルみたいな部屋だった。入ってすぐの所にユニットバスらしきドアがあり、奥にはベッドが二つと、サイドテーブル、小さな冷蔵庫が置いてあるだけ。クローゼットという|概念《がいねん》はなく、私物は|全《すべ》てベッド横に置いてある巨大なスーツケースに収めているらしかった。  |白井黒子《しらいくろこ》は部屋の中でも髪留めを外さず、ツインテールのままだった。服装も夏服のままで、ベッドに腰掛けているのが不自然なようにも見える。  白井は動物にあまり興味がないのか、上条の腕の中の黒猫には視線も向けなかった。 (しっかしまあ……、)  上条は改めて部屋を見回す。いくら同居人が許可を出したとはいえ、本人不在の女の子の部屋に上がり込むと落ち着かなくなる。と、そんな上条を見て白井黒子は小さく笑い、 「ごめんなさい。元々寝て起きるための部屋ですので、客人をもてなすようにはできていないんですの。お姉様を待つのでしたら|隣《となり》のベッドに腰掛けてくださいですの」 「……、いや。まずいだろ|流石《さすが》に本人の許可も取らないで」 「ご心配なさらず。そちらがわたくしのベッドです」 「アンタ何やってんだ!? 他人のベッドの上でごろごろしちゃって変態さんかよ!」 「む、変態とは聞き捨てなりませんですの。人間、人には言えないもののみんな心の中ではこれぐらいオッケーと考えているものです、ほら好きな女の子のリコーダーに口をつけたり自転車のサドルをパクってきたり」 「しねーよ! 一体どうしたらそんな|純粋《じゆんすい》な気持ちがそこまで|歪《ゆが》んで表現されるんだ! 美琴といいお前といい、お|嬢様《じようさま》ってのはこんなモンなのかーっ!」  |上条《かみじよう》が叫んでも|黒子《くろこ》は|納得《なつとく》できないという顔で|頬《ほお》を|膨《ふく》らませるだけだった。うわあ|美琴《みこと》の学 園生活も戦場だなあと上条は考えながら壁に背中を預けてみる。 「けど、お姉様なんて言ってるからてっきり後輩だと思ってたけど。同級生だったんだな」  黒猫は狭い所に興味があるのか、ベッド下を眺めながらバタバタと暴れ始めたが、上条は腕の中の黒猫を逃がさない。 「いえいえ、わたくしれっきとしたお姉様の後悲ですのよ。前任の同居人にはちょっと出て行ってもらっただけですの、……あくまで合法的に」  こわっ! と上条はちょっと顔を引きつらせていると、黒子はポツリと|呟《つぶや》いた。 「……お姉様も敵が多いですからね。力持つ者の|業《こう》とはいえ、|流石《さすが》にお姉様と同じ部屋で寝泊りしている人間が裏切り者というのは|辛《つら》すぎるとは思いません?」 「……、」  上条が|黙《だま》ると、黒猫は暴れるのをやめて彼の顔を見上げた。 「それで」黒子は逆に上条の顔を見て、「あなたは、|普段《ふだん》からお姉様と|頻繁《ひんぽん》に|謹《いさか》いを起こしている殿方でよろしいんですの?」 「?」  そんな事を言われても、|記憶《きおく》のない上条には良く分からない。どうにも美琴とは前から顔見知りだったらしいが、それがどんな関係かいまいち|掴《つか》めていなかった。  と、上条の不思議そうな顔を黒子はチラリと眺め、ため息をついて、 「……、違うなら、それで構いませんの。お姉様の支えとなっている方のお顔を少しばかり拝見してみたいと思っていただけですから」 「支え?」 「はい。お姉様は自覚していませんけどね。それはそれは|嬉《うれ》しそうな顔で食事の際に入浴の際に就寝の際にその殿方の話ばかりが口をついて出ていれば|誰《だれ》でも分かりますわよ」黒子は小さく息を吐いて、「……まったく、お姉様の味方になりたい人問ならここにもいるというのに。まるでそこだけが世界で|唯一《ゆいいつ》の自分の居場所みたいな顔をされますとね、流石に少し|響《ひび》くのですのよね」  ちょっといじけ虫になっている黒子だったが、上条は首を|傾《かし》げた。 「……? けど、あれってそんなタマか? いつでもどこでもリーダーシップ使いまくりで輪の真ん中にいそうな気もするけどな」 「だからこそ、でしよう。常にリーダーであり続けるお姉様には、輪の中心に立つ事はできても輪の中に混ざる事はできない。人の上に立って、敵を倒す事はできても同時に敵を作る事は|避《さ》けられない。———そんなお姉様にとって重要なのは、自分を対等に見てくれる存在と、まぁこんな所だと思いますのよ」 「……、」  |上条《かみじよう》は、夕暮れの中で|一緒《いつしよ》にいた|美琴《みこと》の事を思い出す。  わがままで、怒りっぽくて、人の話は聞かずに、何かあるとすぐにビリビリを放っている姿。だけど、美琴はとても肩の力を抜いていたと思う。まるで|日頃《ひごろ》、両肩にのしかかる重圧から解放されて、大きく伸びをしているように。  美琴にとって、上条と歩いた放課後の道は安全地帯だったんだろう。  そこにあった笑みは、そう思わせるぐらい素直で、あまりに無防備だった。  だが。  本当に、そうなのか? 美琴は上条の|側《そぼ》にいる時だけ、笑っていたのか? 美琴は単純に目の前で妹|達《たち》が殺される所を見ても、ニコニコ笑いながら上条の|隣《となり》で減らず口を|叩《たた》く事ができるような、異常な人間である可能性はないのか。  自分で考えて、上条は吐き気がした。  どうして彼女の事を信じられないんだろう、と上条は自分で自分に疑問を抱いた。 「きっと、お姉様は自分でも気づいていない間にその事に照れていて———」  |白井黒子《しらいくろこ》はわずかに目を細めて、そう言った。  自分には|辿《たど》り着けないポジションを、夢見るような声で。 「———気恥ずかしさのあまり、必要以上に|攻撃的《こうげきてき》な態度を取っているのでしょうね」  上条は、わずかに息を止めた。  さっきは|美琴《みこと》が|恐《こわ》いと思った。そして、恐いと思った自分が情けなかった。けれど、恐いと思う自分を止められなかった。|上条《かみじよう》の予想が正しければ、美琴は『実験』の事を知っていて、|妹達《シスターズ》があんな無残な殺され方をされる事が分かっていて、それでも協力した事になる。  そして、そんな事が分かっていても、彼女は笑って上条の|隣《となり》を歩いていた。  まるで、テーブルの上にぐちゃぐちゃの内臓をべちゃりと置いて、その上に乗っかった料理を|美味《おい》しそうにもぐもぐ食べているような、そんな異常なたとえが脳裏によぎる。  上条は美琴をそんな人間だと思いたくなかった。  彼女の口から『実験』について聞き出す事にためらいを覚えた。  しかし、かと言って|御坂《みさか》妹をあのまま放っておく事もできなかった。  だから、上条はもうどうして良いか分からなくなった。  と、  そんな事を思っていた上条は、ドアの向こうの通路からカツコツという足音が近づいてくるのを聞き取った。黒猫の耳がピクリと動く。  上条の|掌《てのひら》から、ぶわっと粘り気のある汗が噴き出した。 (みこと……まさか、帰ってきたのか!)  上条はそれを望んでいたはずだが、|何故《なぜ》だか強烈な|緊張《きんちよう》と不安が|襲《おそ》いかかってきた。心臓がおかしな強さで不規則に鼓動を刻んでいく。  |黒子《くろこ》は黒子で|一瞬《いつしゆん》、耳を|澄《す》ませて、それからベッドから飛び上がる。 「うわまずい、|寮監《りようかん》の巡回のようですのね!」 「……、は?」  予想外の意見にポカンとした上条に、黒子は両手をバタバタと振って、 「ど、どうしましよう。あなたの事が寮監に知れるとまずい展開になりますのね」 「寮監って、|随分《ずいぶん》はっきり断言するんだな。足音聞いただけで分かるのかよ」 「足音聞いただけで分かる程度には危険な存在という事ですの。とにかく抜き打ちで部屋をチェックしていく邪悪な存在ですので、あなたはベッドの下にでも隠れていてくださいませ」  言うか早いか、黒子は上条の頭を押さえつけるとぐいぐいと強引に美琴のベッドの下へと押し込もうとする。黒猫がみぎゃーと不満そうな声をあげた。 「痛てっ! テメェちょっと待て無理だろこの|隙間《すきま》は普通に考えて普通に!」 「|常盤台《ときわだい》の女子寮に殿方がいる方がよほど普通ではありませんという事ですの! ええい面倒|臭《くさ》いもう|空間移動《テレポート》で……って、あら? あなたどうして私の力が働かないんですの!」 「いやそれきっと|俺の右手《イマジンブレイカー》が———って痛い! 聞けよお前は!」  そんなこんなでまるで車のトランクに荷物を押し込むように上条は黒猫と一|緒《いつしよ》にベッドの下に詰め込まれる。意外な事にベッドの下もキチンと掃除されているらしく、ホコリっぽくはない。 (……だけど部屋の中って土足じゃんつまり|俺《おれ》は今地面にほっぺた押し付けてるのとニュアンス的には何にも変わらないってそういう事だろこれーっ!)  ただでさえベッドの下は狭いのに、さらに先客がいた。|上条《かみじよう》の身長と同じぐらいの巨大なくまのぬいぐるみが押し込んであったのである。  あまりの狭苦しさに上条が思わずぬいぐるみをどつき回そうとした時、ノックもなしにいぎなりドアが開閉する音が|響《ひび》き渡った。低い女の声が聞こえる。 「|白井《しらい》。夕食の時間だから食堂へ集合せよ。……、|御坂《みさか》は? 私は外出届を見ていない、門限破りなら同居人と連帯責任で減点一つとみなすが構わんか?」  どうやら、本当に|寮監《りようかん》のようである。  割と絶体絶命な状態の上条だが、|何故《なぜ》かホッとしていた。部屋に入ってきたのが御坂|美琴《みこと》でない事に、上条はホッとしていた。  今度は|黒子《くろこ》の声が部屋に響く。 「いえいえ、本当に急な用件ならば外出届など提出している|暇《ひま》はないと思いますの。わたくしはお姉様を信じて減点を受け取る事はできません」  ぐいぐいと寮監の体を押しながら黒子は部屋を出て行ったようだった。上条はしばらくそのまま固まってみた。ベッドの下からだと周りの様子が分からないので、のこのこベッドの下から|這《は》い出たら寮監が戻ってきた、なんて事態にもなりかねない。 (ふう……、)  この調子じゃ寮から出て行く時も一苦労ありそうだな、と上条はため息をついた。それから上条と同じくベッドの下に押し込まれていたくまの濾いぐるみを見てみる。  美琴らしからぬファンシーな|趣味《しゆみ》……とも思ったが、良く見ると片目を眼帯で隠しあちこちに包帯が巻かれ全身至る場所にフランケンシュタインみたいな|縫《ぬ》い|痕《あと》の飾りが|施《ほどこ》してあるファンキーな趣味だった。腕の中の黒猫がぬいぐるみと|睨《にら》めっこをしている。  と、黒猫がいきなりぬいぐるみの顔に前足でパンチを繰り出した。  女子寮のベッド下に|潜《もぐ》り込むなんて絶体絶命状態にも|拘《かか》わらず、|可愛《かわい》らしい猫パンチだなあ、と不覚にもほのぼのしてしまった上条は、そこでバリッ、という凶悪な音を聞いた。 「おぶあ! つ、|爪《つめ》立ててんじゃねえ|馬鹿《ばか》!」  ふぎゃあ! と鳴く黒猫を、上条はぬいぐるみから引き|剥《は》がして布地の表面をさすってみる。と、|掌《てのひら》がぬいぐるみらしからぬゴツゴツした硬い感触を|捉《とら》えた。まるでぬいぐるみの中に何か入っているような感じだ。  良く見ると、ぬいぐるみのあちこちにある縫い痕はファスナーに改造してあるようだった。小さなポケットがたくさんついているのだ。ぬいぐるみを|撫《な》で回して感触を確かめると、どうも小さなビンのような感じがした。香水でも隠しているのかもしれない。鼻の良い黒猫はこの|匂《にお》いが許せなかったのか。どうやら美琴はぬいぐるみの中に、校則で禁止されているものを隠しているらしい。麻薬の密輸人みたいだった。  これだけ大きなぬいぐるみという事は、どうも|美琴《みこと》は『見つかっちゃまずいモノ』をかなりの量持ち込んでいるらしかった。|上条《かみじよう》はため息をつくと、ぬいぐるみから手を離して、 「あれ?」  と、上条はそこで気づいた。  ぬいぐるみの首には、ズボンのベルトじみた太い首輪がついている。『きるぐまー』と書かれているのはぬいぐるみの名前なんだろうが、そんなものはどうでも良い。  上から|覗《のぞ》き込んでみると、その首輪に隠れるように首に横一文字のファスナーがついているのが分かる。きつい首輪が|邪魔《じやま》で開けられない構造になっている。その上、首輪には飾りの意味も兼ねて、ゴツい|南京錠《ナンキンじよう》が取り付けてある。明らかにそのファスナーだけ扱いが違っていた。  おそらく、そこに入ってる物は美琴にとって一番見られたくない物なんだろう。上条だってわざわざそれを確かめようとは思わない。だが、ファスナーは半分開いたままだった。中に入っているのは紙のようだ。半分開いたファスナーの中から紙の角が飛び出ている。それだけだ。それだけの話だ。別に放っておけば良い、と上条は思った。人の秘密をあれこれ探るのは良くない。良くないが、その紙にはワープロ文字でこう書かれていた。  試行番号〇七‐一五‐二〇〇五〇七一一一二‐甲 |量産異能者《レデイオノイズ》『|妹達《シスターズ》』の運用における|超能力者《レペル5》『|一方通行《アクセラレータ》』の  上条はギョッとした。紙はファスナーから角が飛び出しているだけなので、先が読めない。上条は目を閉じた。おそらくこれは『見れば後戻りできないもの』だろう。逆に言えば、これさえ見なければまだ引き返す事ができる、最後の基点のはずだ。  香水嫌いの黒猫が、ふーっ、と|威嚇《いかく》の|吐息《といき》を|漏《も》らしている。 「……、」  上条は|一瞬《いつしゆん》考え、それから目を開けた。  見なかった事にする、なんて器用な|真似《まね》ができれば始めからこんな所にはいない。  紙を取り出すには半開きのファスナーを完全に開けなければならない。だが、そのためにはファスナーを|覆《おお》い隠すように巻きつけられた南京錠つきの太い首輪が邪魔だ。———と、普通ならそう思うだろう。だが、これはぬいぐるみだ。上条はくまのぬいぐるみの首を思いっきり締めた。柔らかい真綿は簡単に変形して、ぬいぐるみと首輪の間の|隙間《すきま》が広がる。上条はそこから空いた手の指を差し込んで、ファスナーを開けた。  二〇枚近いレポート用紙が出てきた。どうやらデータ上のものを印刷したらしい事が、紙の端に書かれた日付とデータ名から|窺《うかが》える。 『|量産異能者《レデイオノイズ》「|妹達《シスターズ》」の運用における|超能力者《レペル5》「|一方通行《アクセラレータ》」の|絶対能力《レベル6》への進化法』 レポートの名前はこうだった。 (レベル……6?)  |上条《かみじよう》は首をひねる。今現在ある最高レベルは5のはずだ。  上条はベッドの下から|這《は》い出ると、改めてレポートの文字を目で追っていく。  レポートには研究所や責任者の名前といったものは一切書かれていない。まるで何かの間違いでレポートが外部に流出しても証拠能力はありません、とでも言っているようだった。  レポートの内容は専門的で、日本語でない言葉もかなり多い。上条は自分の持っている知識をフル|稼働《かどう》させて、何とか自分で読める言葉へと変換していく。 『学園都市には七人の|超能力者《レペル5》が存在する。  しかし、「|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》」を用いて予測演算した結果、まだ見ぬ|絶対能力《レベル6》へ到達できる者は一名のみという事が判明。|他《ほか》の|超能力者《レペル5》は成長の方向性が異なる者か、逆に投薬量を増やす事で身体バランスが崩れてしまう者しかいなかった』  七人の能力名と共に様々なグラフが描かれていたが、上条は読み飛ばした。 『|唯一《ゆいいつ》、|絶対能力《レペル5》に|辿《たど》り着ける者は|一方通行《アクセラレータ》と呼ぶ』  |一方通行《アクセラレータ》。  聞き慣れない言葉に、上条は|眉《まゆ》を|額《ひそ》める。  外国語の補足説明のようなものがあったが、上条には読めないので先に進む事にした。『|一方通行《アクセラレータ》は事実上、学園都市最強の|超能力者《レベル5》だ。「|樹形図の設計者《ツリロダイアグラム》」によるとその素体を用いれば、通常の|時間割《カリキユラム》りを二五〇年組み込む事で|絶対能力《レペル6》に辿り着くと算出された』  その下に書いてある文字を見て上条はギョッとした。  参考資料として、別紙に人体を二五〇年活動させる方法をいくつかまとめておく、と書かれていたのだ。 『我々は「二五〇年法」を保留とし、他の方法を探してみた。  その結果、「|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》」は通常の|時間割《カリキユラム》りとは異なる方法を導き出した。実戦における能力の使用が、成長を促すという点である。|念動能力《テレキネシス》や|発火能力《パイロキネシス》などの命中精度が上がるという報告が多いが、我々はこれを逆手に取る。  特定の戦場を用意し、シナリオ通りに戦闘を進める事で「実戦における成長」の方向性をこちらで操る、というものだ』  上条の手がピタリと止まった。  実戦。その言葉と、路地裏に転がっていた|妹達《シスターズ》の死体がカチリと重なったような気がした。 『|予測装置《シミユレータ》「|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》」を用いて演算した結果、一二八種類の戦場を用意し、|超電磁砲《レールガン》 を一二八回殺害する事で|一方通行《アクセラレータ》は|絶対能力《レベル6》へ|進化《シフト》する事が判明した』  |超電磁砲《レールガン》、という言葉には聞き覚えがあった。 (アンタは、この|超電磁砲《レールガン》の|御坂美琴《みさかみこと》を打ち負かした事をもっと|誇示《こじ》するべきなのよ)  そうなると、ここに書かれているのはやはり彼女の事なんだろうか、と|上条《かみじよう》は思う。だが、『実験の協力者』と呼ぶにはあまりに扱いが不適当のような気がする。  殺害。  上条の手が|震《ふる》える。呼吸が不規則になり、床が揺れたような気がして、思わず壁に寄りかかっていた。 『だが、当然ながら同じ|超能力者《レペル5》である|超電磁砲《レールガン》は一二八人も用意できない。そこで、我々は同時期に進められていた|超電磁砲《レペル5》の量産計画「|妹達《シスターズ》」に着目した』  心臓の鼓動がおかしい。指先からどんどん体温が奪われていくのが分かる。みーみ!く黒猫の声が、教会の|鐘《かね》のように脳を揺さぶる。 『当然ながら、本家の|超電磁砲《レールガン》と量産型の|妹達《シスターズ》では|性能《スペツク》が異なる。量産型の実力は、大目に見積もっても|強能力《レベルヨ》程度のものだろう』  ここに書かれている事は、何かが決定的に間違っている、と上条の心は訴えた。 『これを用いて「|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》」に再演算させた結果二万通りの戦場を用意し、二万人の|妹達《シスターズ》を用意する事で上記と同じ結果が得られる事が判明した』  だが、間違ったものに従って、間違った事が実際に行われているのだ。 『二万種の戦場と戦闘シナリオについては別紙に記述する』  そこには一体何が書かれているんだろう、と上条は思う。  二万通りもの『死に方』。ずらりと番号を振られた|妹達《シスターズ》が、いつ、どこで、どうやって、どういう風に進んで死んでいくのか。おぞましいにもほどがあった。何よりおぞましいのは、殺す側だけでなく、殺される側さえもシナリオ通りに演じ続けている点だ。 (……、ミサカには、不可能だと告げます。ミサカの居場所には、黒猫の存在を隠して持ち込む事など物理的に不可能だと、ミサカは正直に告げます)  あの時、少女は何を思っていたのだろうか。  一体何を思って黒猫を眺め、そして何を|想《おも》ってそれを上条に託そうとしたのか。 『|妹達《シスターズ》の製造法は元あった計画のものをそのまま転用する。  |超電磁砲《レールガン》の毛髪から摘出した体細胞を用いた受精卵を用意。これにZid-02' Riz-13' Hel-03等の投薬を用いて成長速度を加速させる』  これだけ絶望的な状況に立ち。  それでも助けを求めなかった少女は、一体何を考えていたのか。 『結果、おおよそ一四日で|超電磁砲《レールガン》と同様、一四歳の肉体を手にする事ができる。元々劣化している体細胞を用いたクローン体である事、投薬において成長速度を変動させている事から、元の|超電磁砲《レールガン》より寿命が減じている可能性が高いが、実験中に|性能《スペツク》が極端に変動するほどではないものと推測できる』  少女は絶望していたのか。  もう何を選んでどう進んだ所で絶対に救われないと、絶望していたのか。 『むしろ問題なのは|肉体《ハード》面ではなく|人格《ソフト》面である。  言語・運動・倫理など基本的な脳内情報は〇〜六歳時に形成される。だが、異常成長を遂げる|妹達《シスターズ》に与えられた時間はわずか一四四時間弱。通常の教育法で学ばせる事は難しい。 よって、我々は|洗脳装置《テスタメント》を用いてこれら基本情報を|強制入力《インストール》する事にした』  それとも。  自分が|誰《だれ》かに殺される事こそが、なんて事のない日常だと信じていたのか。  絶望する事もなく、|諦《あきら》める事もなく。そもそもが、そんな地獄こそが、  自分にとっては当たり前の風景なのだと、ずっとずっと信じてきたのか。 『最初の九八〇二通りの「実験」は所内でも行える。だが、残り一〇一九八の「実験」は戦場の条件上、屋外で行うしかない。死体の処分などの関係から、我々は戦場を学園都市内の一学区に絞って————』 ふざけるんじゃない、と。 |上条《かみじよう》は、手の中にあったレポートを握り|潰《つぶ》していた。 「なめやがって……、」  こんな事があってたまるか、と上条は思う。たった一人の|能力者《エリート》を育てるために、二万人もの人々が殺される事を良しとする理由なんて、この世界のどこを探したって見つかるはずがないと奥歯を|噛《か》み締める。  だが、それでも上条の手の中には狂気のレポートがある。  たとえ|作り物《フイクシヨン》でも差し止められそうなほど|残酷《ざんこく》な実話が目の前にある。 「……なめやがって、ちくしょう!」  ある少女は、殺されるためだけに作られた。  誰かの体細胞から取り出した細胞核を傷一つない卵子に埋め込んで、試験管の中でいくつかの薬品と混ぜ合わさって生み出された肉の|塊《かたまり》だった。  一四歳に見える少女はずっとずっと冷たい研究所の中に押し込められ、名前すらつけられず番号で呼ばれて生きてきた。  だけど、それが何だというのか。  たとえ|御坂《みさか》妹が殺されるためだけに作られた存在だとしても、誰かの体細胞から取り出した細胞核を卵子に埋め込んで作られただけの存在だとしても。冷たい研究所の中にずっとずっと押し込められ、名前すらつけられず番号で呼ばれて生きてきたのだとしても。  それでも、彼女は上条がジュースを落とした時には自分から進んで手を差し伸ばした。  |三毛猫《みけねこ》にノミがついていると分かれば払い落としてくれた。  表情には出さなかったけど、黒猫と|一緒《いつしよ》にいた|御坂《みさか》妹はどこか|嬉《うれ》しそうに見えた。  それは特筆すべき事でもない。普通の人にとっては何の事もない、特別何かを考えるまでもなく、当たり前の事を当たり前のようにやる、それだけの事に見えるかもしれない。  だけど、逆に言えば。  御坂妹は、当たり前と思う事を、当たり前のようにやる事ができる、人間だった。  実験動物などと。そんな名前で呼んで良いはずがなかった。 「……、何で。そんな事にも気づかないんだよ、お前」  |上条《かみじよう》は奥歯を|噛《か》み締める。  黒猫の、みーという鳴き声が、墓地のように静かな部屋の中に|響《ひび》き渡った。  このレポートがここに隠されていた事、そして御坂妹が|美琴《みこと》の体細胞から作られたクローン体である事を考えれば、美琴がこの『実験』に|関《かか》わっていた事は間違いない。二万人もの人を殺す事で成し遂げられる血の実験。そんなものに、進んで協力する人間の気持ちが分からない。上条は思わず|拳《こぶし》を強く握り締めて 「あれ?」  と、そこまで考えて、上条は気づいた。  このレポートは元々データ上にあったものを印刷したものだろう。コピー用紙の左上に、印刷したデータ名と日付が書かれていた。  それ自体は問題ない。  だが、問題なのはそれと]緒にくっついている、二つのバーコードだった。まるで本の裏にっいている商品コードのように、上下に二つ、バーコードがくっついている。 「……、」  学園都市には様々なネット端末があり、それぞれにセキュリティの『ランク』がつけられている。例えば携帯電話はランクD、図書館や家庭の一般端末はランクC、学校の教師陣が使う情報端末はランクB、研究機関の専用端末はランクA、理事会の機密端末はランクS、といった感じだ。  同じネットの中でもランクDの端末ではランクCの情報は引き出せない。  別にこれは支配階級とか、そういう話ではない。単純な話、期末テストや身体検査のデータを一般生徒が|閲覧《えつらん》できるようになると管理側が色々困る、というだけの話だ。 (ちょっと待て、確かこのバーコード……、)  上条はレポートの左上にあるバーコードを眺めた。そうだ、確か上のバーコードが『端末のID』で、下のバーコードが『データのID』だったと思う。バーコードはお菓子の箱にくっついているものに似ていて、白黒シマシマの下に数字が並んでいた。 上の———端末のコードは415872-|C《・》。 下の———情報のコードは385671-|A《・》。  おかしい、と|上条《かみじよう》は思った。  端末のランクは『C』なのに、データのランクは『A』になっている。こんなルール違反はありえない。大体、|美琴《みこと》が正規ルートでレポートを手に入れたのなら、普通は研究所にある『A』ランクの端末を使えば良いだけのはずなのに。  となると、これは正規ルートで手に入れた情報ではない、という事になる。  ハッカー。いや正確にはクラッカーか。データの|破壊《はかい》ではなく|覗《のぞ》き見だけならどちらで呼ぶのか、上条には良く分からないし、どうでも良い。とにかく重要なのは、美琴はこのレポートを正規ルートで手に入れたのではないという事。 つまり、美琴は『実験』の協力者ではないかもしれない。 「……、」  上条は、もう一度レポートに目を通してみた。  いくつか紙をめくっていくと、不意に今までとは違う硬い紙の感触を|捉《とら》えた。その異質な感触の正体を確かめるように、上条はレポートの束の中からその紙を取り出した。  地図だ。  学園都市全域を示す地図だった。何重にも折り畳まれているらしく、広げてみると本棚ぐらいの大きさがある。レポートの途中に挟んであったのと、元がとても|薄《うす》い紙だったせいか、上条は今まで地図の存在に気づく事ができなかった。  地図は路地裏や建物の配置まで書かれた、相当に細かいモノだった。そして、地図のあちこちに赤いマジックで×印が書かれている。 「……?」  その印には、何か|不吉《ふきつ》なものを感じる。だが、地図には建物の名前までは書いていない。  上条は携帯電話を取り出した。そこにはカーナビと同じG?S機能がある。上条は地図の×印を見て、そこの座標を携帯電話に打ち込んだ。より拡大された、建物の名前まで書かれた地図が携帯電話の画面に表示される。 『|金崎《かなさき》大学付属・筋ジストロフィー研究センター』 (筋ジストロフィー?)  上条は首をひねった。筋ジストロフィーとは不治の病の一つだ。簡単に言えば筋肉に命令が送れなくなり、動かせなくなった筋肉が徐々に弱くなってしまう病気である。  だが、筋ジストロフィーの研究施設が一連のレポートと何の関係があるのか。上条は首を|傾《かし》げながら、|他《ほか》の×印が|施《ほどこ》された建物の名前を調べていく。 『|水穂《みずほ》機構・病理解析研究所』 『|樋口《ひぐち》製薬・第七薬学研究センター』  研究所の名前そのものにはあまり|馴染《なじ》みのない|上条《かみじよう》には良く分からないが、思い出した。飛行船の|大画面《エキシビジヨン》が垂れ流していたニュース。筋ジストロフィー関連の研究施設は二週問で三件ほど相次いで|撤退《てつたい》を表明しており市場全体の底冷えが|懸念《けねん》されます。黒猫が不安そうに、みーと鳴く。あの時、あのニュースを見て|美琴《みこと》は何を|呟《つぶや》いていた?  ———私、あの飛行船って嫌いなのよね。  上条は息を|呑《の》む。レポートの間に挟まれた地図。そこに描かれた赤いマジックの×印。病気の事を調べている、という共通点を持つ研究所。この『レポート』と『実験』と『地図』がイコールで結ばれるなら、おそらく『実験』を行っている『研究所』というのはまさにソレだろう。だが、『撤退』という言葉の意味は? そして、地図に描かれた赤い×印の意味は?  上条は|眩暈《めまい》がした。一体|何故《なぜ》なのか、分からない。分からないが、上条はここにきて唐突に、本当に唐突に一つの疑問を抱いてしまった。  もう夜になっているのに、どうして|御坂《みさか》美琴は帰ってこないのか。  彼女は今、一体どこで何をしているのか。  何の事はないのかもしれない。ゲームセンターで頭から湯気を出しながら対戦|格闘《かくとう》グームに夢中になっているだけかもしれない。だが、何かが|不吉《ふきつ》だった。次々と|潰《つぶ》れていく研究所、後を追うように刻まれる赤いマジックの×印、筋シストロフィー関連の研究施設は二週間で三件ほど相次いで撤退を表明しており市場全体の底冷えが懸念されます、まるで地図の上から建物を踏み潰すように描かれる×印、黒でも青でもなく、〇でも□でもなく|敢《あ》えて赤色の×で刻まれる印の意味は。  上条は、このレポートは正規ルートで手に入れたものではない、と断定した。  だとすると、美琴は『実験』の協力者ではないかもしれない、と推測した。  もし仮に、美琴が『実験』には協力できないと研究者|達《たち》を突っぱねて。  それでも、自分の意思に反して『実験』が進んでいる事に美琴が気づいているとしたら。  彼女は、一体どんな行動に出る?  そして、それが『実験』を止めるためのものならば。 「そっか……、」  御坂妹———いや、|妹達《シスターズ》の事を考えての行動ならば。 「そういう、事か」  美琴が何をやりたいのかは分からない。だが少なくても確実に言える事がある。  御坂美琴は、『実験』を何とも思っていなかった訳ではない。  どういう理由で|上条《かみじよう》の前では笑顔を見せて、その事実を隠していたかは知らないけど。  |御坂美琴《みさかみこと》は、決して『実験』を何とも思っていなかった訳ではないのなら。  上条|当麻《とうま》は、きっと御坂美琴の味方でいる事ができる。  ここで待っていても仕方がないような気がした。いや、たとえそれが一番有効な選択肢だったとしても、上条はこの場でじっと待つなんて事は、一秒だって耐えられそうになかった。  上条は黒猫の首根っこを|掴《つか》むと部屋を飛び出す。|誰《だれ》かに見つかるとかそんな事は考えていられない。なりふり構わず廊下を走り、階段を駆け下り、玄関の扉を開け放って、勢い良く外へ飛び出した。      9  レポートを読むのに相当時間を食ったせいか、空はすでに完全な夜の|闇《やみ》に|覆《おお》われていた。  上条は夜の|繁華街《はんかがい》を走り抜ける。  腕の中の黒猫が揺さぶられて気持ち悪そうな鳴き声をあげた。  今の上条には、自分の行動に対する根拠は何もない。美琴が何をやっているかも分からない、美琴がどこにいるのかも分からない、それが心配するべき事なのかも分からない。だが逆に分からない、|曖昧《あいまい》な事こそが上条を不安のどん底へと突き落とした。上条は何も分からないまま走り続ける。まるで何かの作業に没頭する事で不安を打ち消すように。  あてはない、だが捜すしかない。その|矛盾《むじゆん》こそが余計に上条を|焦《あせ》らせる。とにかく闇雲にでも走って美琴を捜し出すしかない。  だが、一方で上条は|安堵《あんど》していた。  こうして、もう一度美琴の身を心配できる今の状況に、安堵していた。  上条は人混みを突っ切るように走り続ける。遠くの風力発電のプロペラがのんびり回っていた。風なんか感じないのに、と思った上条は、ふとそこで立ち止まった。  風が吹いていないのにプロペラが回っている。  一〇〇メートルぐらい先のプロペラが つだけ、ゆっくりと回っていた。おかしいな、と上条は思って———それから、ふと思い当たる節があった。  発電機とは、実はモーターの事である。モーターは|面白《おもしろ》い性質を持っていて、本来電気を使って回すはずのコイルの軸を、逆に手動で回す事で電気を作る事ができる。また、モーターに特定の電磁波を浴びせる事でモーターを回転させる事もできる。学園都市で最近開発が進んでいるマイクロ波発電の仕組みがそれだ。  風もないのに|プロペラ《モーター》が回っている。つまり見えない電磁波に反応しているのだ。 (……あれを、追っていけば)  |上条《かみじよう》は黒猫を抱え直すと、人混みを左右に切り裂くように走り出した。道行く少年少女が、人の流れを乱すように突っ切る上条に注目するが気にしていられない。そんな余裕はどこにもない。  最初は回転しているかどうかも分からない、本当にわずかに揺れているだけだった風力発電のプロペラ。だが、少しでもおかしな動きをするプロペラを追って上条が表通りを突っ切り勢い良く角を曲がり走り続けると、少しずつプロペラの『動き』が大きくなってきた。ゆったりと回転するプロペラの先には、さっきよりほんの少しだけ速く回るプロペラがあり、さらにその先にはもっと速く回るプロペラがある。  まるで見えない爆発の爆心地へと、少しずつ近づいているような|錯覚《さつかく》を覚えた。  上条は、走り続ける。  風なき夜に回る風車に|誘《さそ》われるように、|灯《あか》りの消えた街の外れへと。 [#改ページ]    第三章 レールガン Level5      1  空の色は|闇夜《やみよ》の海のような黒色へと変わっていた。  |今宵《こよい》は三日月。|嘲笑《あざわら》う口に似た細い月の光は弱すぎる。街の中心部から離れた鉄橋は街灯もなく、眼下の川の黒と重なって、そこだけ黒色に沈んでいるように見えた。  |御坂美琴《みさかみこと》は一人手すりに而手をついて、ぼんやりと遠い街の|灯《あか》りを眺めていた。  少女の周りにパチパチと青白い火花が散る。  |雷撃《らいげき》と聞くと恐ろしく痛いイメージがあるが、彼女にとってそれは|優《やさ》しい光だった。初めて力を使えるようになった夜の事は今でも忘れない。|布団《ふとん》の中に|潜《もぐ》って、一晩中パチパチと小さな火花を散らしていた。それは星の|瞬《またた》きに見えた。大きくなって、もっと強くなったら、いつか星空を作る事ができるかもしれない、と本気で考えていた。  そう、大きくなる前の美琴なら。  今となっては、自分には夢を見る資格もないと美琴は思う。 「……、」  |掌《てのひら》を握って、もう一度開く。  たったそれだけの動作に、美琴はわずかに目を細め、小さく笑った。  |誰《だれ》にでもできる、当たり前の仕草。  しかし、世の中にはそんな事さえできない人|達《たち》も確かにいる。 「……筋ジストロフィー、か」  小さな|唇《くちびる》が、ボツリと言葉を|紡《つむ》いだ。  筋ジストロフィー。原因不明の不治の病の一つで、少しずつ筋肉が動かなくなっていく病気の事だ。体を動かさないと筋力が落ちるのと同じく、それは徐々に全身の筋力を奪い、やがては心臓や肺の自由すら奪ってしまう。  もちろん、美琴は筋ジストロフィーではない。  美琴の身近な知り合いに筋ジストロフィーの患者がいる訳でもない。  だけど、そんな生き方は|辛《つら》いだろうな、と思う事はできた。  何も悪い事をしていないのに、生まれた時から自分の思った通りに体を動かす事もできず、徐々に弱っていく自分の体を見てもどうする事もできず、やがてはベッドの上から降りられなくなり、どれだけ救いを求めて手を伸ばしても、誰もその手を|掴《つか》んではくれない。そんな生き方は、あんまりだと思った。  そんな人|達《たち》を、助けてみたくはないかと言った研究者がいた。  |他《ほか》の|誰《だれ》でもない、君の力を使えば筋ジストロフィー患者を助ける事ができるかもしれない、と。そう言って、白衣の男は握手を求めてきた。  筋ジストロフィーとは、自分の思い通りに筋肉を動かせなくなる病気。  そして、脳の命令は電気信号によって筋肉に伝えられる。  もし仮に、生体電気を操る力があれば、通常の神経ルートとは別の方法で、筋肉に命令を送る事ができるかもしれない。  徐々に体が弱っていく事が分かっていながら何もできず、少しずつ不安と恐怖の|闇《やみ》へと|呑《の》み込まれていく人々に、救いの光を与える事ができるかもしれない。 「……、」  かつて幼い子供は、そんな言葉を信じて疑わなかった。  自分の|電撃使《でんげきつか》いとしての力を解明し、それを『植え付ける』事ができれば、多くの筋ジストロフィー患者を助けられると思った。  こうして|御坂美琴《みさかみこと》のDNAマップは学園都市の|書庫《バンク》へと正式登録された。  だが、最近になってそのDNAマップを使った軍用の|妹達《シスターズ》が作られている、というウワサが学園都市中に広まっていた。別に珍しい事でもない。美琴は能力開発の名門、|常盤台《ときわだい》中学の特待生で学園都市でも七人しかいない|超能力者《レペル5》だ。そんな根も葉もないウワサの|槍玉《やりだま》などいくらでもあげられた。だから美琴はそんなウワサなど信じなかった。  いや、信じたくなかったんだと思う。  しかし、現実はそんな少女の願いを、予想もできない方法で粉々に打ち砕く。 「……、っ」  軍用に開発された|劣化複製品《レデイオノイズ》、|妹達《シスターズ》はすでに生産ラインを確立され、後はボタンを押せば|無尽蔵《むじんぞう》に作られる状態だった。  しかも作られた|妹達《シスターズ》は、兵器として生きる事さえ許されず、実験動物として殺される事だけを生きる目的とされた。まるで、解剖されるカエルのように。 「どうして、……」  ……こんな事になっちゃったのかな、と。美琴は|震《ふる》える|唇《くちびる》で|咳《つぶや》いた。  もちろん決まっている。幼い美琴が不用意にDNAマップを提供してしまったせいだ。あの白衣の男が最初からウソをついていたのか、それとも健全な研究が途中で変質したのかはもう分からない。  かつて、困っている人を助けたいと願った少女がいた。  しかし、そんな彼女の願いは、結果として二万人もの人間を殺す事になった。 「……、」  だから、それを止めたいと少女は願った。  たとえこの命を殺してでも、狂気の『実験』を止めなければならないと思った。  命を|賭《か》ける事が、格好良いとは思わない。死ぬ事を、望んでいる訳でもない。実際、体は|震《ふる》えているし、指先は血の気が引いて冷たくなっているし、頭の後ろはノイズが散っているように、思考はまともに回らない。できうる事なら、助けて、と叫びたかった。  だけど、それは絶対に許されないと思った。  |美琴《みこと》の脳裏には、一人の少年の顔が浮かぶ。学園都市でも七人しかいない|超能力者《レベル5》を軽くあしらうだけの正体不明の力を持ちながら、|無能力《レベル0》の|烙印《らくいん》を押された年上の少年。そんな不当な扱いを受けているのに、虚勢でもバッタリでもなく、本当に『どうでも良い』と一言で切り捨てる強さを持つ少年。絶大な力を持つのに決して|奢《おご》らず、どんな弱者にもどんな強者にも分け隔てなく対等に接する事のできる、とても強い少年。  そう言えば、ほんの数週間前に美琴とあの少年はこの鉄橋でケンカをしていた。  あの少年は、自分とは何の関係もない不良|達《たち》をケンカっ早い美琴から遠ざけるために、ピエロに|徹《てつ》してわざと不良達に追われて逃げていたはずだ。  もしも、仮に。  あの時すでに、美琴が街の裏に|潜《ひそ》む『実験』の|全《すべ》てに気づいていて、あの少年に助けてと叫んでいたら、あの少年は立ち上がってくれただろうか?  きっと、立ち上がってくれる、と思う。  美琴にできない事も、あの少年ならできるような気がした。  だけど、自分一人が助けを求めるのは|卑怯《ひきよう》だと思った。  美琴のせいで一万人近い|妹達《シスターズ》が殺されてしまった。残る一万人にしても、常に死の縁に立たされている事に違いはない。そんな大罪を背負う人間が、両手を血と肉と骨と脂肪と臓物に染め上げた怪物が、一人助けを求めるなど許されないと思った。 「……、たすけて」  だからこそ、美琴の声は|誰《だれ》もいない所でしか発せられない。  |脅《おび》え、傷つき、ボロボロになった|呟《つぶや》きは、ただ|闇《やみ》に消えていく。 「たすけてよ……」  決して誰にも届かない叫びが、耐え切れずに少女の口からこぼれていく。  と、その時。みー、という子猫の鳴き声が聞こえた。  美琴は視線を落とす。闇とは違う、|優《やさ》しいぬくもりを感じさせる黒い毛皮を持つ子猫が、美琴の足元に座っていた。黒猫は美琴の顔を見上げながら、|汚《けが》れを知らない子供のように幼い顔で、みーと鳴いた。  一体どこからやってきた猫なんだろう、と美琴が思っていると。  カツ、という足音が、聞こえた。 「……、」  |美琴《みこと》は、顔を上げる。  |灯《あか》り一つなく、針のように細い三日月の淡い光だけが、ただ少女を取り巻く環境を表現しているかのような、|闇《やみ》噴く夜の鉄橋に、 「……、何やってんだよ、お前」  その少年は、その闇を引き裂くように、やってきた。  暗闇に|呑《の》み込まれる少女の叫びを聞いて駆けつけた|主人公《ヒーロー》のように、やってきた。      2  美琴は夜の鉄橋に一人、ぼんやりと立っていた。  遠くから見えた少女の姿に、|上条《かみじよう》は正直、胸が|潰《つぶ》れるかと思った。あまりにも弱く、もろく、今にも消えてしまいそうなほど、疲れ切った少女の横顔。|普段《ふだん》活発に見えた美琴だからこそ、その姿は余計に痛々しく見えた。  だからこそ、上条は声をかけるかどうか、少しだけ迷った。  だけど、声をかけない訳には、いかなかった。 「……、何やってんだよ、お前」  声に、美琴は上条の顔を見た。  そこにいる美琴は、いつもの通り活発で、生意気で、自分勝手な|御坂《みさか》美琴だった。 「ふん。私がどこで何してようが勝手じゃない。私は|超能力者《レペル5》の|超電磁砲《レールガン》なのよ? 夜遊びした程度で寄って来る不良なんざ危険の内にも入んないわよ。そもそもアンタになんか言われる筋合いなんてないけど」  しかし、その姿が|完壁《かんべき》だからこそ、上条はその裏側を見たような気がした。  そんな姿など、もう見ていられなかった。 「……、やめろよ」  だから、上条は言う。  美琴の顔からほんの|一瞬《いつしゆん》、わずかに表情が消えたが、次の瞬間には元に戻っていた。 「やめるって、何を?ばっかね、自販機に|蹴《け》り入れてジュースもらってる美琴ちゃんに、今さら夜歩きぐらい————」  |認《いぶか》しげに、御坂美琴は詔しげな、『いつもの』仕草を返そうとしたが、 「もう、やめろよ。御坂妹の事も|妹達《シスターズ》の事も『実験』の事も|一方通行《アクセラレータ》の事も知ってるから。だから、お互い|無駄《むだ》な事は省こうぜ」  上条は、紙の束を取り出した。 二〇枚以上からなるコピー用紙に印刷された、狂気のレポートを。 「————————————————————————————————————————、」  その|瞬間《しゆんかん》、|御坂美琴《みさかみこと》の『|日常《いつも》』は|木《こ》っ|端微塵《ぱみじん》に砕け散った。  おそらく自分でも顔の筋肉をどう動かしているのか分かっていないのだろう、美琴の|頬《ほお》が|壊《こわ》れたように引きつっていた。  |上条《かみじよう》の胸が、ズキンと痛んだ。  おそらく彼女が自分を押し殺してでも守ろうとした何かを、上条はその手で|破壊《はかい》した。  それでも、上条は前へ進もうとするが、 「あーあ、何でこんな事しちゃうのかなあ?」  まるでそれを|遮《さえぎ》るように、美琴は言った。 「そのレポート持ってるって事は、アンタ私の部屋に勝手に上がり込んだって事でしょ。ぬいぐるみん中まで探すってアンタ|小姑以《こじゆうと》上の執念じゃない? まったく、そんな周りが見えなくなるほど深入りしてくれたってのはありがたく思うべきかもしれないけどさあ、アンタ普通だったら死刑よ死刑」  美琴は何の気なしに、いつものように笑いながら言った。  まるで何か吹っ切れたような笑みが、上条には余計に痛々しかった。 「それで、一個だけ聞いて良いかしら?」  ほとんど強制的な美琴の明るい声。上条が反射的に『何だよ?』と聞くと、 「結局。ソレを見てアンタは私が心配だと思ったの? 私を許せないと思ったの?」  美琴は妙に明るい声でそう言った。 まるで、|糾弾《きゅうだん》しに来たのは分かっているとでも言っているような、世界中のどこにも自分を心配してくれる人などいないとでも言っているような、そんな声が上条は妙に|痛《かん》に|障《さわ》って、 「……、心配したに、決まってんだろ」  押し|潰《つぶ》すような低い声に、美琴は少しだけびっくりしたような顔をして、 「ま、ウソでもそう言ってくれる人がいるだけマシってトコかしら、ね?」  美琴は、笑っていた。  何かに|諦《あきら》めたような、遠い夢を見ているような目で。 「……ウソじゃねえよ」  上条の口から、ほとんど反射的に言葉が出た。  な、に? と美琴は|眉《まゆ》を|輩《ひそ》め、 「ウソじゃねえっつってんだろ!」  上条の叫び声に、美琴は|恐《こわ》がりの黒猫よりも大きく肩を|震《ふる》わせた。  |上条《かみじよう》は|何故《なぜ》だか、|美琴《みこと》がそんな顔をするのが許せない。  だからこそ、上条は今度こそ前へ進む。 「勝手に部屋に上がった事は謝る。一応同居人には断ったけどそんなん理由になんねーしな、その事なら後でいくらでも|電撃《ビリビリ》浴びせりゃ良いだろ。で、お前は何をしてるんだ? このレポートはまともな手段で手に入れたものとは思えない。それにレポートに混じって地図があったな。病気の事を調べてる研究所ばっかだったけど、あそこに書かれてた赤い×印は何なんだ?あれじゃ、まるで……」  上条は、そこまで言って少し|黙《だま》った。  そんな上条を見て、美琴は小さな声で答えた。 「……|撃墜《キル》マークのように見えた、かしら?」  ゾッとするほど、感情の消えた声。  それまでの彼女を知る者ならば、それだけで凍りつくような透明な声。  美琴の足元にいる黒猫が、不安そうに少女の顔を見上げた。 「あってるわよ、それで。ま、っつっても|馬鹿《ばか》正直に|超電磁砲《レールガン》ぶっ放したって訳じゃないけどね」美琴は歌うように、「研究所の器材って一台数億とかするでしょ。そいつを、ネットを介して私のチカラで根こそぎドカン、ってね。結果として機能できなくなった研究所は|閉鎖《へいさ》、プロジェクトは永久凍結……」  楽しく口ずさむように言った美琴は、そこで一度だけピタリと言葉を止めた。 「……、って、なるはずだったんだけどね」 「はず、だった?」 「ええ。実際、研究所を一つ二つ|潰《つぶ》すのは簡単なのよ。けど、『実験』は|他《ほか》の研究所に拾われ る。どれだけ潰しても何度|邪魔《じやま》をしても、次から次へと『実験』は引き継がれちゃう。きっと、お偉い研究者さんには前人未到の|絶対能力《レベル6》ってのがよっぽど|美味《おい》しく見えるのね」  少女の声は、本当に疲れ切っていた。  まるで、千年を生きて人間の|闇《やみ》を|全《すべ》て見つめてきたような、達観した絶望がそこにあった。 「……、あの子|達《たち》ね。平気な顔で自分達の事を実験動物って言うのよ」  ポツリ、と美琴は口に出した。 「実験動物。ラットやモルモットがどんな扱い受けてるか知ってる?」美琴は、奥歯を|噛《か》み潰すように、「気になったから調べてみたけど、ひどいもんよ。|麻酔《ますい》もかけずに生きたままノコギリで|頭蓋骨《ずがいこつ》に穴を空けて脳に直接クスリを垂らしてデータを採ったり、クスリを何ミリ注いだら血を吐いて|悶《もだ》え死ぬかを一日一日絵日記みたいに記録したり。材料が足りなくなればカゴの中でオスとメスを掛け合わせるし、実験が終わって余ったネズミはそのまま焼却炉へ放り込まれる」  ぐっ、と。何か吐き気を抑えるように、美琴の|喉《のど》が動いた。 「あの子|達《たち》はね、実験動物ってのがどんなものかを正しく理解してる。そして、分かっていながら、それでも平然と自分達の事を『実験動物』って呼んでるのよ」  そんなものは耐えられないと、|美琴《みことく》は|唇《ちびる》を|噛《か》み締めた。  そして、耐えられなくても止める方法が見つからないと、噛んだ唇から赤い血が|溢《あふ》れた。 「でも、レポートはあるんだろ。コイツをキチンと|警備員《アンチスキル》にでも渡せば、上の理事会だって動き出すんじゃねえのか? 確か人間の|量産化《クローン》は国際法違反だったはずだろ」  薬物投与を含む|時間割《カリキユラム》り、独自技術を用いたロケット開発など、確かに学園都市のやってる事は|無茶苦茶《むちやくちや》だが、それでも一応、網の目をかいくぐる程度には『法』を意識している。  それが人体実験を目的とし、解剖するために二万入分の人肉を作る|製造計画《クロ ン》なんて、あからさまに国際法に抵触する『実験』など、普通なら考えられない。こんな情報が『外』に|漏《も》れたら、それを口実に学園都市を|疎《うと》ましく思う勢力が一気に|潰《つぶ》しにかかるはずだ。  それなのに、美琴は何を言っているんだという顔で、 「あの『実験』は人間としては間違ってるけど、学者としては正しいのよ。たとえ法を破り重いリスクを背負って人の道から外れてでも、成し遂げるべき学術だってね」 「ふざけんじゃねえ! そんな|馬鹿《ばか》な事が————ッ!」 「そう、馬鹿な事よ。けどさ、おかしいって思わない? この街は絶えず人工衛星で監視されてるのよ。街の中でどれだけこそこそ隠れてようが、空の目をごまかす事なんてできるはずないでしょ」  |上条《かみじよう》は、美琴の言葉に絶句した。  つまり、学園都市を統括する『理事会』の連中は、 「|黙認《もくにん》してるのよ。そしてそれは当然、この街の警察である|警備員《アンチスキル》や|風紀委員《ジヤツジメント》にも及んでる。街の『法』を向こうに握られてるんだもの、下手にレポートなんて持ってったらこっちが逆に捕らえられかねないわよ」  美琴は足元にいる黒猫に視線を落としながら、言った。  まるで、何かに耐えて歯を食いしばるように。 「……、間違ってる」  上条は血を吐くように|呟《つぶや》いた。  ルールなんてものは人を守るために人を|縛《しば》るものだ。それが、入が殺される事を黙認するばかりか、人を助けようと立ち上がった者まで縛り付けるだなんて、本末転倒すぎる。  美琴は、そんな上条を見て小さく笑った。  本当に、何も分かっていない子供を見て|微笑《ほほえ》む、疲れ切った大人のように。 「そう、間違ってる。|誰《だれ》かに|頼《たよ》るのは間違ってる。これが私の引き起こした問題ならば、その責任を取ってあの子達は私の手で助け出すべきなのよ」 「……、」  |上条《かみじよう》は、|黙《だま》り込んだ。  |美琴《みこと》は、その小さな|唇《くちびる》をわずかに|歪《ゆが》め、 「考えてみれば簡単なのよね。この『実験』は|一方通行《アクセラレータ》を強くするためのもの。ならば、話は簡単じゃない。その|一方通行《アクセラレータ》って柱がなくなれば、『実験』は空中分解してしまう」  つまり、美琴はこう言っていた。  自分のこの手で、|一方通行《アクセラレータ》を|抹殺《まつさつ》すると。  たとえその手を殺人罪に染め上げてでも、残る一万人もの|妹達《シスターズ》を助けてみせると。 「ウソだな」  だが、上条はあっさりと言い捨てた。  びっくりしたような顔をする美琴に、上条はさらに言い放つ。 「|俺《おれ》は言ったんだ、この俺が言ったんだぜ。|無駄《むだ》な事は省こうって。お前に|一方通行《アクセラレータ》は倒せないよ。だって、そんな事ができりゃお前は真っ先に向かってるだろ。ちょっと怒っただけで俺にビリビリを飛ばしてきたお前が、ここまでされて黙ってるはずないだろ」 「……、」 「研究所を|潰《つぶ》すとか、理事会に密告するとかさ。お前にしちゃ考えてる事がどうにも回りくどいとは思ってたんだ。お前は気に入らないヤツがいたら正面から|殴《なぐ》り合うタイプだろ。証拠を見つけて先生に密告するようなタマじゃねーだうが」上条は一拍、息を吸い、「……お前がそれをしないってのは、やりたくてもできないって事だろ。例えば、お前と|一方通行《アクセラレータ》の間にはあまりに戦力差が開きすぎていて、ハナから勝負にならない、とかな」  それに、そんな理屈はなくても美琴には|一方通行《アクセラレータ》を殺せないと上条は思う。  |御坂《みさか》美琴は、|妹達《シスターズ》が死ぬのが許せなくて立ち上がった人間だ。  そんな彼女が、|誰《だれ》かが死ぬのを止めるために、別の誰かを殺す事を良しとするはずがない。 「だから、俺は言ってるんだ。まともに殴り合っても解決できない、かと言って|搦《から》め手を使っても向こうが上手。それで、何で相談しなかったんだよ? 一人で解決できないって分かったら、|他《ほか》の誰かに助けを求めりゃ良いだけの話じゃねーか」  上条の言葉に、美琴は少しだけ黙り込んだ。  夜の鉄橋には、風鳴りの音すら聞こえない。  静寂の中で、ただ黒猫だけが人恋しそうにみー、と鳴いた。 「……、|超電磁砲《レールガン》を一二八回殺せば、|一方通行《アクセラレータ》は|絶対能力《レベル6》へと|進化《シフト》する事ができる」  美琴は|闇《やみ》の中で、ポツリと|呟《つぶや》いた。  何言ってんだ、と上条は|眉《まゆ》を|輩《ひそ》めるが、 「けれど、|超電磁砲《レールガン》を一二八人も用意する事はできない」  美琴は孤独の中で、歌うように言った。 「だから、|超電磁砲《レールガン》の劣化コピーとして二万人の|妹達《シスターズ》を用意する」 だとしたら、と|美琴《みこと》は楽しい夢でも語るように舌を|滑《すべ》らして、 「もしも[#「もしも」に傍点]、私にそれだけの価値がなかったら[#「私にそれだけの価値がなかったら」に傍点]?」  |上条《かみじよう》は、息を|呑《の》んだ。 「一二八回殺しても、|絶対能力《レベル6》になんか|辿《たど》り着けない。研究者|達《たち》にそう思わせる事ができたら?」  そう言って、少女は笑っていた。 「実際、『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』は|一方通行《アクセラレータ》と|超電磁砲《レールガン》が戦えば逃げに|徹《てつ》しても一八五手で私が死亡する、という結果を出している。けど、もっと早くに勝負が決まってしまったら? 最初の一手で私は敗北し、後は地を|這《は》って|尻《しり》を振って|無様《ぷざま》に逃げ転がる事しかできなかったら?」  そう言って、少女は本当に楽しそうに笑っていた。 「その結果を見た研究者達は、きっとこう思う。『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』の|予測演算《カリキユレイト》は素晴らしいけど、それでも機械のやる事にはやっぱり間違いだってあるんだ、ってね」  そう言って、少女はボロボロの笑みを浮かべていた。 「……、っ」  上条は、歯を食いしばる。 『実験』を行う研究所をいくつ|潰《つぶ》しても、|他《ほか》の研究所が『実験』を拾ってしまうのでは意味はない。彼らを止めるには、そもそも『実験』が何の利益も生まない、無意味なものだと思わせなければならない。  だから、美琴は|一方通行《アクセラレータ》と|八百長《やおちよう》の勝負を仕掛けようとした。  バッタリでも演技でもして、とにかく研究者達に『実験』の根幹となる『|演算結果《シミもユレ シヨン》』が間違っている、と思い込ませようとした。  たとえ、自分の命を|犠牲《ぎせい》にしてでも。  だけど、それは。 「そんなもんに、何の意味があるってんだ? たとえ一回、研究者達の目をごまかしたって、もう一度『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』を使って演算し直して、前と同じ結果が出たら『実験』は再開されちまうだろ!」  上条の叫び声に、黒猫がビクリと|脅《おび》えたように|震《ふる》えた。  だが、美琴の声はそんな黒猫をなだめるように柔らかかった。 「|大丈夫《だいじようぶ》。それはないわよ。『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』はね、実は二週間ぐらい前に地上からの原因不明の|攻撃《こうげき》で|撃墜《げきつい》されているの。上はメンツを守るために隠し通してるみたいだけどね。だか ら、もう再計算はできないのよ」  |記憶《きおく》のない上条や事情を知らない美琴には分からない。かつて、白いシスターが操る竜王の|一撃《いちげき》が、大気圏を突き抜け人工衛星を両断した事を。 「ハッ、それにしても笑っちゃうわよね。今ある『予測演算による〜』なんてヤツはみんな、『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』が何ヶ月も前に吐き出したデータを元に人間が動いているだけなんだから」  |上条《かみじよう》は、夕暮れの|美琴《みこと》の言葉を思い出した。  ———私、あの飛行船って嫌いなのよね。  ———……、機械が決めた政策に人閲が従ってるからよ。 「けど、逆に言えばチャンスは今しかない。『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』の再計算が使えなくなった今、吐き出された答えだけを|鵜呑《うの》みにしてきた三流どもには、|膨大《ぼうだい》なデータの『どこが正しくて、どこが間違っているか』を分析する事ができない。だから、データの一ヶ所でも『間違い』があれば、『実験』全体をストップさせるしかないのよ。ちょうど、プログラムが訳の分からないバグで強制終了しちゃうみたいにね」  この少女には、そんな事しかできない。  体を張って、命を捨てて、|誰《だれ》かを守ろうとしても。そこまでしたって、勇者のように正しく正面から敵を倒す事も、英雄のように正しく真っ向から誰かを守る事もできはしない。  少女にできる事は、たった一つだけ。  自分の命を投げ打つ事で、元々正しかった答えを、正しくなかったと思い込ませる事だけ。 「……、っ」  上条は、奥歯を|噛《か》み締める。  そこまでしたハッタリにしても、必ず通用するとは限らない。研究者が美琴の『演技』に気づいてしまえばそれで終わりだし、もっと間抜けな展開として、『予測演算はどこか間違ってる』と判明しても、そのまま『実験』を続行してしまう可能性だってあ.る。  それでも、少女にはそれしかできなかった。 『実験』が中止になる事を、神様にでもお祈りするしか道は残されていなかった。 「そっか、」  上条は、ポツリと|呟《つぶや》いた。  自分が今、どんな感情を浮かべているかも分からないまま、 「お前、死のうとしてるんだな」  ええ、と美琴は|頷《うなず》いた。 「お前が死ぬ事で、残る一万人の|妹達《シスターズ》が救われるって、本気で信じてるんだな」  ええ、と美琴は頷いた。  そうして、美琴は}歩だけ足を動かし、改めて上条と向かい合った。 「さあ、分かったらそこをどきなさいよ。私はこれから|一方通行《アクセラレータ》の元へ行く。すでにデータを盗んで二万種の『戦場』の|座標《ばしよ》は調べてある。だから、|妹達《シスターズ》が戦場で戦う前に、私が割り込んで戦いそのものを終わらせてやるわ」  だからそこをどきなさい、と|美琴《みこと》は言った。 「……、」  |上条《かみじよう》は、歯を食いしばる。  確かに、『実験』を止め|妹達《シスターズ》を助けるにはもうそれ以外に方法はないのかもしれない。世の中には、|殴《なぐ》り合いで解決できない問題もある。|幻想殺《イマジンブレイカー》しだろうが|超電磁砲《レールガン》だろうが、そんなものは|所詮《しよせん》子供のケンカの延長線上でしかないのだ。大人の社会が作り出す、組織という名の力の前ではあまりにも無力すぎる。 『実験』を止めるには、  大人の社会に立ち向かう事は、もう美琴が死ぬ事でしか|叶《かな》えられないのかもしれない。  上条は、もう一度歯を食いしばる。  脳裏に浮かぶのは|御坂《みさか》妹の事だった。無償で散らばったジュースを集めてくれて、|三毛猫《みけねこ》のノミを取ってくれて、けれどどこか無防備で、猫に嫌われる自分の体質を気にしていて。彼女は何も悪い事をしていないのに、このままでは確実に殺されてしまう、という事実を奥歯で|噛《か》み締めて、 「どかねえよ」  上条の言葉に、美琴は心底|驚《おどろ》いたように上条の顔を見返した。 「どか、ない。ですって?」  ああ、と上条は立ち|塞《ふさ》がるように、言った。  こんな美琴を前に、あんな話を聞いて。今さらどく事など、できるはずがない。  だが、美琴は|納得《なつとく》しない。  わなわな、と。怒りに|唇《くちびる》を|震《ふる》わせながら、彼女は信じられないという顔で言葉を|紡《つむ》ぐ。 「なに、言ってんの? アンタ、自分が何言ってるか分かってんの〜 私が死ななきゃ一万人の|妹達《シスターズ》が殺されるのよ。それとも、|他《ほか》に何か方法があるって言うの?まさか、劣化コピーだからって死んでも構わないとかって思ってんじゃないでしょうね……」  黒猫には入の言葉は分からない。だが、確かに黒猫は美琴の言葉を聞いてぶるりと震えた。  もちろん、上条だって分かっている。  一万人の|妹達《シスターズ》が死んでも良い存在なんて思わない。この方法の他に何か得策がある訳でもない。美琴が死ななければ本当に一万人もの|妹達《シスターズ》が実験動物のように殺されてしまう事だって理解している、つもりだ。  そして、美琴の言葉通り。自分が何を言っているかなんて、分からない。 「……、それでも、|嫌《いや》なんだ」  美琴の詳しい事情なんて上条には分からない。だけど、美琴は|妹達《シスターズ》を助けるために、命まで投げ捨てようとした。そんな自分の事より他人の事を|想《おも》う少女がボロボロに傷ついて、|誰《だれ》も知らない所で一人、殺されて———そんな事で作られる平和なんて、見たくなかった。 「————、」  |美琴《みこと》は|一瞬《いつしゆん》、ほんの一瞬、何かびっくりしたような顔を浮かべたが、  その表情は、すぐに怒りの中へと消えていった。 「そう。アンタは私を止めるのね。一万人の|妹達《シスターズ》の命なんて、どうでも良いって言うのね」  チリチリ、と。周囲の空気に|緊張《きんちよう》が走る。  美琴の足元にいた黒猫は、|脅《おび》えたようにぺたんと耳を伏せてしまった。 「私はあの子|達《たち》が傷つくのは見てられないの。だからこの手で守ってみたいと思っただけなのよ。……それを止めると言うならば、この場でアンタを|撃《う》ち抜く。さあ、これが最後の通告よ。その場をどきなさい」  |上条《かみじよう》は、|黙《だま》って首を横に振った。  美琴の|辰《くちび》口の|端《る》が、|歪《ゆが》む。 「ハッ、|面白《おもしろ》いわね。そんじゃ、力づくで私を止めるって言うの? 良いわよ、それならこっちも|遠慮《えんりよ》しない。アンタがどんな力を持ってるか私は|未《いま》だに分かんないけど、今回ばかりは負ける訳にはいかない。だからアンタも死ぬ気で|拳《こぶし》を握りなさい—————」  バチン、と美琴の肩の辺りから青白い火花が散った。 「————さもなくば、本当に死ぬわよ」  |溢《あふ》れ出た火花はブリッジを描き、鉄橋の手すりへ|繋《つな》がって|霧散《むさん》される。火花の凶暴な音色に|驚《おどろ》いたのか、黒猫が美琴の|側《そば》から離れた。  上条と美琴の距離はわずか七メートル。  上条からは一歩で踏み込めるほどの近距離でもなく、美琴にしてみれば光の速度の|雷撃《らいげき》をいくらでも放てるほどの射程距離圏内。  どちらにとって有利で、どちらにとって不利な間合いなのかは一目で分かる。  きっと、目の前の少女には、もう言葉は届かない。  言葉が届かない以上、もう止められる方法なんて一つしかない。 「……、」  上条は、その右手を横合いへ突きつけた。  握った拳を一度だけ開く。まるで右手の封印を解くような仕草。美琴の目がわずかに細まる。上条は|顎《あご》が砕けるほど奥歯を|噛《か》み締め、一度開いたその右の手を、  握り締めない[#「握り締めない」に傍点]。 「ちょっと、何やってんのよ、アンタ……」  |美琴《みこと》は、いつまで|経《た》っても動かない|上条《かみじよう》に向かってポツリと|呟《つぶや》いた。  上条は何も答えない。  その態度が許せないのか、美琴は|激昂《げつこう》して、 「……戦いなさいって、言ってるでしょ? 私を止めたければ、力つくで止めてみうって言ってんのよ!ばっかじゃないの、たとえアンタが無抵抗でも私はアンタを|撃《う》ち抜くに決まってんじゃない!」  美琴の口から砲弾のように放たれる、|憎悪《ぞうお》のこもった言葉。  それに対して、上条はポツリと一言だけ、答えた。 「……、ない」 「——————? なにを、言って」  美琴は、ほんのわずかに|眉《まゆ》を|顰《ひそ》め、 「戦わない[#「戦わない」に傍点]」  上条の言葉に、彼女は|愕然《がくぜん》と凍りついた。  美琴は信じられないモノでも見るかのように上条を|凝視《ぎようし》して、 「ばか、じゃないの? ハッ、アンタって本当に|馬鹿《ばか》じゃないの! 私にはもうこの方法以外に道なんてない、だからそう言って私の|信頼《しんらい》するアンタの背中だって簡単に撃ち抜くわよ!なに生ぬるい世界に|浸《つ》かってる気になってんの? ここはアンタの知ってる日常なんかじゃない、もう一万人以上の人間が簡単に殺されてる、血と肉と骨と脂肪と内臓に彩られた非日常の地獄で、そんな|日和《ひよ》った意見が通るはず———」 「———それでも[#「それでも」に傍点]、戦いたくない[#「戦いたくない」に傍点]……っ!」  地獄が口を開いたような美琴の|罵倒《ばとう》は、しかし上条の叫びにかき消された。  上条は水平にあげた右手と対になるように、残る左手も水平に上げる。まるで立ち|塞《ふさ》がる十字架のように、同時に戦う意志はないと両手を挙げるように。 「く、そ。戦えって、言ってるのに……、」  美琴はわなわなと肩を|震《ふる》わせた。  全身に帯電する火花はもはや体の内側に|留《とど》めておけず、余剰部分の青白い電気の|蛇《へび》は手近な手すりや地面などに次々と散っていく。  それでも、上条は|拳《こぶし》を握らない。  |嫌《いや》だった。  上条は、美琴の身が心配だから、彼女の前に立ち塞がった。美琴が一人で危険な場所へ踏み込もうとするから、それを止めたかった。ボロボロに傷ついた少女が、最後の最後まで|誰《だれ》にも救いを求める事なく、一人孤独に死を望む姿なんて見たくなかったから、これ以上はたった一つの傷も負って欲しくなかったから、ここに立っているつもりだった。  それなのに、そんな少女に向かって拳を向ける事なんてできない。  |上条《かみじよう》には、目の前の|美琴《みこと》を|殴《なぐ》る事ができない。  そんな上条を見て、美琴は全身から青白い紫電を|撒《ま》き散らし、 「……、戦えって、言ってんのよ————ッ!!」  |瞬間《しゆんかん》、ついに美琴の前髪から|雷撃《らいげき》の|槍《やり》が生み出された。  自然界で生み出される雷の最大電圧は一〇億ボルト。  美琴のそれは雷に匹敵する。  一〇億ボルトもの壮絶な紫電で生み出された、青白い光の槍。空気を突き破る雷撃の槍は空気中の酸素を分解してオゾンに組み替え、一瞬にして七メートルの距離を詰めて上条へと|襲《おそ》いかかる。  ズドン! という|轟音《ごうおん》。  青白い雷撃の槍は、上条の顔のすぐ横を突き抜けた。 「次は、本気でぶち抜くわよ」美琴は歯を食いしばり、「戦う気があるなら|拳《こぶし》を握れ! 戦う気がないなら立ち|塞《ふさ》がるな! ハンパな気持ちで人の願いを踏みにじってんじゃないわよ!」 バチン、という凶暴な|庖障《ほうこう》と共に美琴の前髪から火花が|炸裂《さくれつ》する。  雷撃の槍が、今度こそ上条|当麻《とうま》の心臓目がけて|真《ま》っ|直《す》ぐ突き進む。  まるで、さっさと拳を握れと催促しているような、美琴の攻撃。  上条は、それでも右手を握らない。  目の前の少女に、拳を振り上げたくない。  そして、凶暴に吼える雷撃の槍が上条の心臓へ直撃した。      3  砲弾に|薙《な》ぎ倒されるように上条の体が地面へ|叩《たた》きつけられた。そのまま勢いでゴロゴロと地面の上を一、ニメートルも転がる。手足を乱暴に投げ出してうつ伏せに倒れるその姿は、なんだか|壊《こわ》れた人形を連想させた。 「え?」  初め、目の前の光景に一番|驚《おどろ》いたのは、上条よりも美琴の方だった。  美琴は、上条の力がどんなものかを分かっていない。けれど、これまでのケンカでは一度だって攻撃が当たる事はなかった。その正体不明の力にこちらの攻撃を打ち消されるたびに、どんどん美琴の攻撃はエスカレートしていって、いつしか上条はどんな攻撃だって簡単にあしらっていくような、そんな無敵の存在に見えていた。  だからこそ、|美琴《みこと》は|雷撃《らいげき》の|槍《やり》を|撃《う》ったのだ。  これぐらいの攻撃なら、あの少年はあっさりと打ち消すはずだと。  |歪《ゆが》んではいるものの、ある意味で|上条《かみじよう》を|信頼《しんらい》して。 「なのに……、」  ……、こんなの、何かの間違いだ、と。美琴は思った。  美琴は橋の上に転がる少年の姿を見た。一〇億ボルトもの高圧電流をまともに浴びれば、人体がどうなるかぐらい美琴だって分かっている。あの少年はもう二度と立ち上がらない。分かってる。全部美琴がやった事だ。分かってる、分かってるはずなのに、  |瞬間《しゅんかん》、二度と立ち上がらないはずの少年が動いた。 歯を食いしばって、その少年は全力を振り絞って立ち上がった。 「な……、」  ……んで、と。その時、美琴は確かに|呟《つぶや》いた。  美琴の雷撃は上条の力に打ち消された訳ではない。聞違いなく上条の体に直撃した。それでもなお、少年は何の力に|頼《たよ》る事なく、ただ自分の体だけで立ち上がったのだ。  そして。  一〇億ボルトの雷撃を受けてなお、少年は|拳《こぶし》を握らなかった。  だからこそ、美琴は|呆然《ぼうぜん》としたまま、『何で?』と聞いた。 「……、知ら、ねえよ」上条は、歯を食いしばって、「戦いたくない理由なんて、分からねえよ。|他《ほか》になんか良い案があるのかどうかも分っかんねえよ! けど|嫌《いや》なんだよ、お前が傷つく所なんて見たくねえんだよ! 自分でも何言ってっか分かんねえよ! だけど仕方ねえだろ、お前に拳を向けたくねえんだから!」  な……、と美琴は思わず絶句した。  少年は、今にも崩れ落ちそうな体で、必死で地に足をつけて、血を吐くように叫ぶ。 「もうこれ以外に方法がなくたって、他にどうして良いのか分からなくったって、それでも嫌なんだよ! 何でお前が死ななきゃいけないんだよ、どうして|誰《だれ》かが殺されなくっちゃならないんだよ! そんなの|納得《なつとく》できるはずねえだろ!」  きっと少年は、もうその言葉が美琴に届かない事に気づいている。  それでも、少年は叫ぶ。  理由なんて、おそらく何もない。  理屈を分かってしまっても、それでも|諦《あきら》めたくない何かがあるだけだ。 「……、」  一瞬。本当に一瞬、美琴は|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。  かつて、|誰《だれ》にも聞かれないように『たすけて』と|呟《つぶや》いた少女がいた。  その少年は、少女の叫びに|応《こた》えるように現れた。  きっと、少女が『たすけて』と言えば、少年はどんな奇跡でも起こすに違いない。  だけど、それは許されないと|御坂美琴《みさかみこと》は口の中で眩いた。  自分のせいで、もう一万人以上の|妹達《シスターズ》が殺された。  それなのに、自分一人が他力本願の救いを求める事など、絶対に許されないと思ったから。 「うる、さいのよ。アンタは」美琴は、|震《ふる》える口を動かして、「私には、今さらそんな言葉をかけてもらえるような資格はないんだから。仮に、誰もが笑って誰もが望む、そんな幸せな世界があったとして。そこに私の居場所なんかないんだから!」  そこをどけ、と美琴は|吼《ほ》える。  バチン、と美琴の前髪から火花が散る。  今度こそ少年は|諦《あきら》めて|拳《こぶし》を握るか道を|譲《ゆず》るはずだと思うのに、  少年は、決して拳を握らない。  もはや自分でも制御できない|雷撃《らいげき》の|槍《やり》が、|真《ま》っ|直《す》ぐ少年の胸を貫いた。  ズドン! という|轟音《こうおん》。  だが、少年は死なない。どころか、倒れもしない。今にも崩れてしまいそうな両足に|全《すべ》ての力を注ぎ込み、ボロボロのままに立ち|塞《ふさ》がっている。 「……、お前、だって。気づいてんだろ。こんな方法じゃ、誰も救われないって事ぐらい。たとえ、お前が死んで、一万人の|妹達《シスターズ》の命が助けられたとしたって。そんな方法で助けられて、アイツらがお前に感謝するとでも思ってんのか? お前が助けたかった|妹達《シスターズ》ってのは、そんなにちっぽけなもんじゃねえだろ!」 「うるさい! もう|黙《だま》って戦いなさいよー 私はアンタが思ってるような善人じゃない! 一〇億ボルトもの雷撃の槍を浴びて、一体どうしてそんな事にも気づけないのよ!」  美琴は|威嚇《いかく》するように、さらに雷撃の槍を放つ。  だが、やはり|上条《かみじよう》は右手を握らない。直進した雷撃の槍は、真っ直ぐ上条の胸に直撃する。  それでも、上条は倒れない。  どれだけ攻撃を食らっても、上条は絶対に倒れない。 「私はもう一万人以上の人間を殺したのよ! そんな悪党がこの世界で生きて良い理由なんか何もないんだから! 一体どうしてアンタはこんな悪党のために立ち上がってんのよ!」  悪党なんかじゃねえ、と上条の口が動いた。  美琴は|訝《いぶか》しげに|眉《まゆ》を|蟹《ひそ》めたが、 「だったら、何で|俺《おれ》は生きてんだよ?」  え? と|美琴《みこと》は思わず|呟《つぶや》いた。 「一〇億ボルトって言ったな、そんな高圧電流を浴びて、普通の人間が生きてられる訳ねーだろ。お前、自分でやってておかしいとは思わなかったのか。それとも無意識の内に手加減してたのかもしんねーけど」 「て、かげん?」美琴は訳が分からないという顔で、「そんな、はずない。私はアンタを殺す気だった。アンタが無抵抗だって、分かってて、抵抗して来ないって、知ってて、それでも!」 「それでも、お前に|俺《おれ》は殺せなかった」 「……、」  美琴は、思わず|黙《だま》り込んだ。  そうだ。普通、人間は一〇億ボルトもの高圧電流を浴びて生きていられるはずはない。  だが、例外はある。  例えば市販のスタンガンには二〇万ボルトや三〇万ボルトのものもあるが、これを|撃《う》っても人は死なない。一方で、家庭用の|一〇〇ボルト《コンセント》でも人は感電死する場合がある。  これは|電圧《ボルト》ではなく|電流《アンペア》の高低が原因である。『電気量』とは『電圧×電流』なのでがいくら高くても電流が低ければ感電死は起こらないのだ。  つまり、美琴が放っていた|雷撃《らいげき》の|槍《やり》は、電圧は恐ろしく高くても電流は恐ろしく低かった。  まるで、時代劇に使う|偽物《にせもの》の刀のような、|見た目《ぞとづら》だけの|殺意《なかみ》のない攻撃。  だが、美琴は手加減したつもりはない。間違いなく本気で撃ったつもりだった。だからこそ、どうしてこんな現象が起きてしまったのか分からずに、ただ|上条《かみじよう》の顔を見る。  カチカチ、と。まるで|脅《おび》える黒猫みたいに|震《ふる》える美琴を上条は正面から見据えて、 「お前にとって、自分の命で|妹達《シスターズ》を助ける事は最後の夢だったかもしれないけどさ———」  上条は、ボロボロのままに言った。 「———結局は、それでも。最後に残った自分の夢を奪おうとした男さえ殺せないほど、善人だったってだけじゃねーか」  心底疲れ切ったように、しかしどこか|嬉《うれ》しそうに笑いながら、言った。  あ、う……、と美琴は戸惑うように、混乱するように上条を見た。  その目は、まるで道に迷った小さな子供のように揺らいでいた。  |御坂《みさか》美琴は、これ以上は上条|当麻《とうま》に『実験』に踏み込んで欲しくなかった。  だからこそ、『実験』について聞かれた時、美琴はあっさりと、そのおぞましい内容を口に出した。それを聞いて、上条に絶望して欲しかった。無抵抗な上条を一方的に雷撃で攻撃したのも、もう美琴とは話は通じないと、上条にそう|諦《あきら》めて欲しかったからだ。  上条が美琴に対して失望すれば、  きっと、上条は美琴を追って死の渦巻く『実験』へ|関《かか》わってくる事もないはずだから。 「や、めてよ」  |美琴《みこと》は、両手で頭を抱えた。  それでも、|上条《かみじよう》は美琴を止めると言ってしまった。たとえどれだけ|薄汚《うすぎたな》く|罵《ののし》られても、一方的に|攻撃《こうげき》を受け続けても、それでも構わないと断言してしまった。  このままでは、あの少年は踏み込んでしまう。  決して後戻りできない、血と泥の渦巻く異常な非日常の世界へ踏み込んでしまう。 「あの子|達《たち》を助けるには、もう私が死ぬしかないんだから! だから、もうそれで良いじゃない! 私一人が死んで、それでみんなが救われるなら、それはとても素晴らしい事でしょ!そう思うならそこをどいてよ!」  美琴は両手で耳を|塞《ふさ》いで、硬く目を閉じて叫んだ。  ————それでも、『どかない』という少年の声が聞こえたような気がした。 「……、死ぬわよ」  美琴は目を閉じたまま、|呟《つぶや》いた。 「ここから先に救いはない! 今度の一撃をまともに食らったらアンタは絶対生きられない!だから死にたくなければどきなさい!」  美琴の体から周囲に|溢《あふ》れる紫電の火花の音色が、重く鋭く変化していく。  まるで|得体《えたい》の知れない兵器が起動したように、音階がどんどん上がっていく。 「……、」  それでも、少年は一歩も動かない。  そんな程度の攻撃では、後ろへ下がる理由にもならないと断言するように。  美琴は|唇《くちびる》を|噛《か》み締める。  この少年にバッタリは通じない。  本当に生きるか死ぬかの一撃を放たない限り、この少年を|諦《あきら》めさせる事などできない。  バッタリではないと分かれば、あの少年だって戦わざるを得ないはずだ。  ————それでも、『どかない』という少年の叫びを、確かに聞いた。  ついに耐えられなくなったように、美琴は叫んだ。  硬く閉じたまぶたを貫通するような|閃光《せんこう》。耳を覆《おお》う両手を突き抜けるような轟音《ごうおん》。電流の弱い、飾りの高圧電流ではない。|正真正銘《しようしんしようめい》の、天をも|穿《うが》つ雷撃の|槍《やり》が発射されたのだ。  光も音もない閃光の中、  ドォン!! という花火工場が爆発するような直撃音が|響《ひび》き渡った。  それでも、あの少年は、最後まで右手を握らなかった。  結局は、たったそれだけの、お話だった。      4  |美琴《みこと》が恐る恐る目を開けると、少年は何メートルも離れた場所に転がっていた。  うつ伏せになったまま動かない少年の衣服の所々から、線香のように|薄《うす》い煙がゆったりと漂っていた。長時間テレビゲームをやっていると、ゲーム機本体が熱を持つように、物体に電気を通すとジュール熱という熱量を生み出す。  高圧電流が生み出す|膨大《ぽうだい》なジュール熱は、少年の体のあちこちに軽度の|火傷《やけど》を刻み付けたようだった。  しかし、少年はもう火傷の痛みにのた打ち回る事もない。 「あ、」  それで。終わった、と美琴は唐突に分かってしまった。  今度こそ。今度の今度こそ、あの少年はもう二度と起き上がらない。見せ掛けでない、本物の高圧電流を浴びた少年の心臓はおそらくショックで停止している。  み!、という黒猫の鳴き声が聞こえた。  ふらふらと美琴は振り返る。と、少し離れた場所に、すっかり|脅《おび》え切った黒猫が座っていた。  全身の毛を逆立てるのでもなく、|牙《きば》と|爪《つめ》を|剥《む》き出しにする訳でもなく。  その幼い|瞳《ひとみ》が、どうしてこんな事をするのかと訴えているようだった。 「ああ、」  そんな黒猫を見て、美琴は唐突に気づいてしまった。  結局、美琴が少年に行った事は、そういう事なのだ。思い切り人を|信頼《しんらい》して鼻をぐりぐり押し付けてくる|可愛《かわい》らしい猫に向かって、いきなり|雷撃《らいげき》を浴びせるようなものだったのだ。  実際、あの少年にはいくつかの選択肢があった。  例えば、レポートを読んだ後に、その事を隠して|偽《いつわ》りの日常へ帰る事もできた。  美琴を止めるにしても、レポートを読んだ事を隠しておいて、何の疑念も抱かず背中を見せる美琴の後頭部を思い切りぶん|殴《なぐ》って気絶させる事だってできた。  だけど、あの少年はそんな事はしなかった。  人の部屋に勝手に上がりこんで、レポートを読んだ事を正直に明かして、戦いたくないと自分の本音を|暴露《ばくろ》して、何もかも手の内をさらして、それでも真正面から美琴を止めようとした。  それは手元のカードを|全《すべ》て明かした状態でポーカーをするようなものだ。  ジャンケンで最初からチョキを出すと宣言してしまうようなものだ。  何でそんな危険な事をしたのか? 美琴の信頼を裏切って背後から|奇襲《きしゆう》すれば、もっと安全に事を終える事もできたのに。 「……、」  そんなものは、決まっていた。  |美琴《みこと》は、あの少年を|信頼《しんらい》していた。少なくても、『実験』については何も知らない人間として、彼の周りを一種の安全地帯と見ていた。  まるで、|陽《ひ》だまりで丸くなって昼寝している猫のように。  きっと、あの少年はそんな美琴の背中を刺す事はできなかった。たとえそれが一番安全でも、最も確実だとしても、そんな事はしたくなかったに違いない。  銃口を突きつけられた少年は、それでも相手を傷つけたくないと願い。  暴力なんかに|頼《たよ》らなくても、きっと話し合いで解決できると信じていて。  けれど、そんな少年の言葉は結局届かないまま、引き金を引かれた。 「……、」  美琴は、歯を食いしばる。  もう彼女を止めるものは何もない。|諦《あきら》めに似た何かが美琴の中にあった細い糸をブツリと断ち切った|瞬間《しゆんかん》、美琴は何かから解放されたような気がした。まるで糸の切れた風船がどこまでも飛んでいくように、何か決定的な破滅の待つ自由を手に入れたような、そんな感覚がして もぞり、と|上条《かみじよう》の指が動いた。 「!?」  あまりの現実を前に、美琴は思わず凍りついた。  うつ伏せに倒れ、投げ出された上条の右手が、ぴくりと動いた。その指の腹が、まるで地面を|優《やさ》しく|撫《な》でるように、ゆっくりと動く。  それは、自分をこんな目に|遭《あ》わせた人間に|復讐《ふくしゆう》したいというものではない。  それは、一刻も早くこの場から逃げ出したいという恐怖心でもない。  少年は、始めから言っていた。  戦わない、と。戦いたくない、と。  その|執念《しゆうねん》は、たった一人で『たすけて』と叫んだ少女に救いの手を差し伸べたいと願う、ただそれだけのものだった。 「……、どう。して?」  美琴は、思わず|呟《つぶや》いた。  レポートを読んだだけで美琴の事情が|全《すべ》て分かる訳ではない。筋ジストロフィーの|治療《ちりよう》のためにDNAマップを提供した事とか、それがいつの間にか軍事目的に転用されていた事とか、|誰《だれ》かを助けたいと思った気持ちが二万人もの人々を死に追い詰めた事とか。  そんな事情を、少年は何も知らないはずだ。  そして、そんな事情を知らなくても、少年は|美琴《みこと》のために立ち上がった。  立ち上がって、くれた。  だけど、それは。 「や、めて」  ふるふる、と。美琴は首を横に振って、泣きそうな子供のように|呟《つぶや》いた。  少年が再び立ち上がれば、美琴は|妹達《シスターズ》を助けるために、|邪魔《じやま》をする少年を排除しなければならない。もちろん手加減する事はできる。だが、あの少年は今動いている事がもうおかしいのだ。ほんの|些細《ささい》な、遊びのような|一撃《いちげき》で、今度こそ本当に心臓が止まるかもしれない。 「やめて、よ」  だからこそ、美琴は言う。  もう少年には立ち上がって欲しくなかった。生きているなら、そのまま気絶してくれれば良いのだ。そうすれば美琴も、少年を殺さずに|一方通行《アクセラレータ》の元へ|辿《たど》り着ける。  あの少年が美琴を|諦《あきら》めてくれれば、もう|誰《だれ》も傷つかないのに。  あの少年が美琴に失望してくれれば、それでもう苦痛から解放されるのに。  なのに、少年の指は動く。  もうまともに体も動かせないのに。もぞもぞ、と。全身|全霊《ぜんれい》を振り絞って、持てる力を|全《すべ》て使い切って、ようやく指先一本を動かす。 「ああ、」  美琴は、少年へゆっくりと|掌《てのひら》をかざした。  きっと、あの少年はもう止まらない。たとえ手足が|千切《ちぎ》れても、目や耳が|潰《つぶ》れても、その心臓が動く限り、絶対に諦めない。ならば、もうやるしかない。あの少年が|妹達《シスターズ》を助ける事を妨害するなら、それを排除しなければ先に進めないのだから。  美琴は、掌でゆっくりと|狙《ねら》いを定めて、 けれど、|雷撃《らいげき》の|槍《やり》なんて|撃《う》てなかった。  凍り付いていた美琴の|涙腺《るいせん》が、熱を帯びた。  無理だった。美琴にはあの少年を撃てなかった。理屈なんて知らなかった。正しい答えなんて分からなかった。だけど、とにかく|嫌《いや》だった。目の前の少年に死んで欲しくなかった。そんな可能性を考えるだけで暴れ回りたい|衝動《しようどう》が胸の内から飛び出しそうだった。  たすけて、と。  決して誰にも聞かれてはならないはずの声を、少女は口の中で眩いた。  まるで、いるかどうかも分からない神様にお祈りするように。  とうの昔に|錆《さ》びたはずの|涙腺《るいせん》から、透明な錆びが落ちた。      5  |上条《かみじよう》の視界は明滅していた。  鉄橋の上へ転がったまま、投げ出された上条の視界に、|呆然《ぽうぜん》と立つ|美琴《みこと》がいた。  |雷撃《らいげき》は、|止《や》んでいた。  ボロボロ、と。一歩も動けない美琴の目から、子供のように涙が|溢《あふ》れていた。 (考えろ……、)  ともすれば砕け散りそうになる心を必死に抱え込んで、ぼんやりと思った。  目の前の少女は確かに言った。『私が死ぬしかない』と言った。『死にたい』でも『死ねば良い』でもなく、確かにその口で『死ぬしかない』と言ったのだ。  ようは、それだけの話。  少女は死を望んでいたのではなく、選べる選択肢がそれしかなかっただけの話。  例えば三つの選択肢があって、そのどれか一つを必ず選べと言われて、その|全《すべ》てに『自殺』と書かれていたら、もう『自殺』を選ぶしか道はない。そんなものを無理矢理に選ばせておいて、選んだ責任だけを少女に押し付けるだなんて話は絶対に間違っている。 (だから、考えろ……、)  三つの選択肢に『自殺』とあったら、四つ目の選択肢を用意すれば良い。そこに『やっぱり生きる』という選択肢があれば、『死ぬしかなかった』少女は、きっと新たな選択肢を選んでみるはずだから。 (その四番目の選択肢を、考えろ……〉  |御坂《みさか》美琴が死ななくても『実験』を止め、|誰《だれ》一人欠ける事なく何一つ失う事なく、|妹達《シスターズ》を助けられるような、そんな夢のような選択肢を。あの少女は確かに言ったのだから。言葉には出していないけど、確かにこう言ったのだから。  本当は生きていたいけど、もう死ぬ以外に選べる道がないんだから、と。 (探しても見つからないなら、自分で作ってみろ……)  |一方通行《アクセラレータ》が|超電磁砲《レールガン》を一二八回殺すと|絶対能力《レベル6》へ|進化《シフト》できる。  |超電磁砲《レールガン》は一二八人も用意できない。  そこで、|超電磁砲《レールガン》の劣化コピーである|妹達《シスターズ》を用意する。  |妹達《シスターズ》を使うと、二万人殺す事で同じ結果を得る事ができる。 『実験』は『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』の予測演算によって計画されている。  研究所を|潰《つぶ》した所で、『実験』は|他《ほか》の研究施設に引き継がれてしまう。 『実験』を止めるには、そもそも『実験』が何の利益も生み出さないものだと思い込ませなければならない。 (あれ……?)  |上条《かみじよう》は、そこに一つ、何か|違和感《いわかん》のようなものを感じ取った。  だが、次の|瞬間《しゆんかん》。高圧電流のショックに何度もさらされ、ボロボロになった意識は急速に|闇《やみ》へと落ちていった。 [#改ページ]    第四章 アクセラレータ Level5(Extend)      1  夜が深くなるにつれ徐々に鋭さを増してきた冷気が、真夏にも|拘《かか》わらず凍える刃の腹を顔に押し当てられたような肌寒さを感じさせた。  |検体番号《シリアルナンバ 》一〇〇三二号、|御坂《みさか》妹は|繁華街《はんかがい》を抜け、物静かな工業地帯にある一角へ向かって機械のように正確な歩調で歩いていた。  ポツポツと街灯の並ぶ無人の通りを一人歩きながら、御坂妹はこれから始まる『実験』内容を頭の中で|反劉《はんすう》していた。  利用地形は絶対座標でX-228561' Y-568714。開始時刻は日本標準時間で午後八時三〇分ジャスト。使用検体は一〇〇三二号。その用途は『「反射」を適用できない|戦闘《せんとう》における対処法』。 「……、」  つらつらと自分が殺されるシナリオを頭の中で巡らせている御坂妹だが、そこに悲壮な表情はない。恐怖もなければ|憎悪《ぞうお》もないし、|諦《あきら》めすらも浮かんでいない。  そこにあるのは、本当にただの『無』表情。  それは見る者がいれば、ゼンマイ仕掛けの人形がトコトコと|崖《がけ》っぷちへ向かっていくような、そんな危うさを感じさせた事だろう。  御坂妹は別に、生き物の命の大切さが分からない異常者ではない。 目の前で今にも死にそうな人がいれば、即座に自分の取り得る選択肢を検索し、最も適切なものを選ぶだけの行動力もある。  だが、御坂妹はそれを自分に向ける事ができなかった。  必要な器材が|揃《そろ》えばボタン一つでいくらでも自動製造できる肉の体に、|洗脳装置《テスタメント》を用いてハードディスクに上書きするように|強制入力《インストール》された無の心。御坂妹の命の単価は一八万円だった。 ちょっと高性能なパソコンぐらいのものである。それにしたって、製造技術が向上すればさらに安値で売りさばける事だろう。それこそ、ワゴンセールのカゴの中に放り込まれるぐらいに。 (……、だからこそ、理解できない事が一つある、とミサカは考えます)  暗い夜道を歩きながら、御坂妹はふと思った。  路地裏で複数の『ミサカ』|達《たち》に遭遇したある少年は、|驚《おどろ》きで息を止めていた。何か耐えられない事実を突きつけられたかのように、たとえその事実を突きつけられても、それを認めたくないと言っているかのように。  |御坂《みさか》妹は、あの少年の言葉を思い出す。  ————お前は|誰《だれ》なんだ。  あの言葉は、御坂妹に対して質問しているのではなくて、  ————お前は何をやってるんだ。  まるで、御坂妹に何かを否定して欲しくて質問を投げかけているような感じだった。  そんなに認めたくなかったんだろうか、と御坂妹は無表情のままに考える。  二万人の|妹達《シスターズ》が、ただ作業通りに心臓を止めていく世界が。 (……、分からない、理解ができません、とミサカは少年の心理状態に疑問を抱きます)  最初から理解できないものなどいちいち考えるな、と御坂妹は結論づけた。  どぶの中を泳ぐカエルの気持ちなど分からなくても問題ない、とでも言うように。  しかし、それなら、  一体どうして、御坂妹はあの少年の顔を思い出したのだろう?  本当に何の価値もないなら思い出す事もない。一週間前に駅のホームにへばりついていたガムの形や色などいちいち覚えている必要もないのだから。  今はこれから行う『実験』について、頭の中で情報を組み立てていたはずだ。失敗すれば多くの人に迷惑をかけるこの状況で、一体どうして思考が横道に|逸《そ》れて、『実験』と何の関係もない少年の顔を思い出したのか。 「……、」  御坂妹には分からない。  そして、最初から理解できないものなどいちいち考えるな、と結論づけていた。 そんなどうでも良いちっぽけな事さえ、御坂妹には分からなかった。 何も分からないまま、少女は一人、己を殺す刑場へ向かう。 その正確な足音は、まるで時限爆弾に取り付けられた時計の針のようだった。      2  風のない鉄橋の上に、|上条《かみじよう》の体は横倒しに転がっていた。  上条は倒れたまま、ゆっくりと目を開けた。高圧電流を浴びて意識を失っていた時間は、おそらく短い。デジタル表示ならせいぜい一〇秒か二〇秒程度のものだろう。だが、投げ出された手足の先が異様に冷たかった。正常な血の巡りが阻害されているのだ。感電の|衝撃《しようげき》で心臓の鼓動が不規則になっているのかもしれないし、最悪、気を失っている間に一度か二度、心臓が止まっていたのかもしれない。  まるで飽きて部屋の隅へ投げられた人形のような自分の手足を、|上条《かみじよう》は首を動かさずにぼんやりと眺めた。 「……、」  試しに指先に力を加えると、人差し指はゆっくりと、死にかけの昆虫みたいに動いてくれた。まぶたを動かして|瞬《まばた》きをする事もできた。ひどく浅いものの|唇《くちびる》の|隙間《すきま》からは空気が吸い込まれ、吐き出されていくし、投げ出された体の中で、わずかに心臓の鼓動が聞こえていた。  良かった、と上条は唇を動かした。  体は、まだ動いてくれる。それなら、まだ立ち上がる事ができる。 「なに、やってんのよ。アンタ」  と、そんな上条の頭上から、とても近くから、少女の声が聞こえた。  その時になって、上条はようやく横倒しの|頬《ほお》に当たる感触が妙に柔らかい事に気づく。  どうやら、|美琴《みこと》が|膝枕《ひざまくら》をしてくれているらしい。 「……そんなにボロボロになって、汚い地面の上に転がって、短い間だけど、心臓だって止まってたかもしれないのに—————」  少女の声は、|震《ふる》えていた。  それは学園都市でも七人の|超能力者《レベル5》とか、|常盤台《ときわだい》中学のお|嬢様《じようさま》の|超電磁砲《レールガン》とか、そんなも のではなかった。一人|暗闇《くらやみ》で|震《ふる》え続ける、何でもない女の子の声だった。 「————何で、そんな顔で笑ってられんのよ」 ぱたぱた、と頭上から。|上条《かみじよう》の|頬《ほお》に透明な|雫《しずく》が落ちた。  それは、春の雨みたいに温かかった。 「……、」  良かった、と上条の|唇《くちびる》は動いたが、声は出なかった。  |美琴《みこと》の味方で良かった、と。上条はほんのわずかに、幸せそうに目を細めた。  黒猫が耳元で、みーと鳴いた。  ざらついた小さな舌が、|優《やさ》しく傷を|舐《な》めるように上条の手に触れた。 「分かったんだ」  上条は、倒れたまま言った。美琴は何も答えない。ごしごし、と。指先でまぶたを|拭《ぬぐ》うような音が聞こえてきただけだった。 「……『実験』を止める方法が、分かったんだ」  美琴の|喉《のど》が、ひくっ、と|驚《おどろ》いたように息を|呑《の》む音を立てる。 「考えてみれば、簡単だったんじゃねーか」  この『実験』は|全《すペ》て、『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』が描いた|設計図《シナリオ》に、研究者|達《たち》が従っているだけ、というものだった。 だからこそ、美琴は研究者達に、本当は正しい『設計図』が狂っていると思わせられれば、『実験』は中止されるのでは、と考えた。  そう、そんな簡単な方法で『実験』を止められるなら、話は簡単だ。 「……、『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』は当然、|一方通行《アクセラレータ》が学園都市で最強って事も『計算』に入れてるんだろうな———」  バッタリを信じ込ませただけで『実験』が止められるというならば、 「———だったら、話は簡単だ。研究者達にはこう思い込ませれば良い。最強最強って|謳《うた》ってるけど、実は一方通行ってメチャクチャ弱かったんだな、って」  そう、例えば『学園都市最強』を語っている|一方通行《アクセラレータ》が、  なんて事のない、ただの路上のケンカで簡単に倒されたら?  たとえ、|予測演算《シミユレ ト》上では『学園都市最強』という結果が出ていたとしても、そんな|惨《みじ》めな姿を見た研究者達は、果たして|一方通行《アクセラレータ》を『最強』だと思い続ける事ができるだろうか。  機械の下した『予測』が間違っていたと、  研究者達にそう思い込ませる事は、できないだろうか? 「無理よ、そんなの……、」  美琴は、ポツリと答えた。 「そんな簡単な方法じゃ、『実験』は止められないわ。だって、私のレベルはアイツと同じ『5』なのよ? |超能力者《レールガン》が同じ階級の|超能力者《アクセラレータ》を打ち破った所で、きっと、研究者|達《たち》は誤差の範囲内って事で話をつけてしまう。|一方通行《アクセラレータ》が実は弱かった、なんて風には思わないわよ」  |美琴《みこと》は、悔しそうに|呟《つぶや》いた。  歯を食いしばるように、血がにじむように。 「それに、私達じゃきっと、束になったってアレには勝てない」美琴は己の無力を|噛《か》み締めるように、「私は直接、|一方通行《アクセラレータ》ってヤツと顔を合わせた事は一度しかないわ。けど、たったそれだけでも分かる。|書庫《バンク》に侵入して、アイツの能力をちょっと検索しただけで鳥肌が立つぐらいなのよ。アイツとの戦いは、もう勝ちと負けの混在する勝負にならない。アイツにとって戦うってのは、ただ|一方的に相手を虐殺するって事《ワ ン サ イ ド ゲ ー ム》なんだから」 「……、」  それはそうだろう、と|上条《かみじよう》は思った。  すでに『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』は|超電磁砲《レールガン》と|一方通行《アクセラレータ》が戦えば、一八五手で美琴が殺されてしまう『答え』を導き出している。きっと、それは限りなく正しい答えだろう。|御坂《みさか》美琴が四方八方手を尽くして、どれだけ頑張った所で|一方通行《アクセラレータ》には決して勝利できない。だからこそ直情径行の強い美琴は|一方通行《アクセラレータ》に|殴《なぐ》りかかる事もできず、最後には『実験』を止め|妹達《シスターズ》を助けるためには自分で自分を殺さなくてはならない、とまで自分を追い詰めてしまったのだから。  上条は分かっている。御坂美琴では、|一方通行《アクセラレータ》に勝利できない事ぐらい。 「それなら、|俺《おれ》が戦えば良いだろ」  上条の言葉に、美琴は心底びっくりしたように息を|呑《の》んだようだった。  けれど、それしか道はない。  |御坂美琴《レペル5》が同じ|一方通行《レペル5》を倒しても『|一方通行《アクセラレータ》は実は弱かった』と研究者達に思い込ませる事ができなくても。  学園都布最強の|一方通行《レベル5》が、学園都市最弱の|上条当麻《レベル0》にあっさり敗北したら?  もちろん、実は今までノーマークだっただけで、上条はとんでもない能力者だったのでは、という風に見るかもしれない。だが、上条は学園都市の|身体検査《システムスキヤン》で体の隅々をどれだけ調べた 所で、|無能力者《レペルむ》という|烙印《レッテル》は決して取れない。上条|当麻《とうま》の|幻想殺《イマジンブレイカー》しとは、そういうものなの だから。  どれだけ調べても|無能力者《レベル0》の上条に、あっさり負けた|一方通行《アクセラレータ》。  そんなものを、研究者は『学園都市で最強』だなんて思うだろうか? 「……、」  やる事が分かれば、後は簡単だ。  上条は美琴の|太股《ふともも》から頭を離して起き上がろうとしたが、体がまともに動かない。ずるり、という感覚と共に頭が太股から硬い地面へ落っこちた。  それでも、歯を食いしばってイモ虫のように|震《ふる》える指を動かす。ゆっくり、ゆっくりと五本の指をアスファルトの|凹凸《おうとつ》に引っ掛け、バーベルでも持ち上げるように|渾身《こんしん》の力を振り絞って、ようやく地面から自分の体を起こした。  片ヒザをつくだけで、寿命が五年は縮むと思うほど疲労しきった|上条《かみじよう》の体。  歯を食いしばる上条を見て、|美琴《みこと》は|震《ふる》える声を出した。 「なに、やってんの?」信じられないものでも見るかのように、「無理よ、アンタは|一方通行《アクセラレータ》の力が分かってないからそんな事が言えるだけなのよ! あんな、世界中の軍隊を敵に回してケロリと笑ってられるような、マンガに出てくる反則じみた悪役みたいなヤツと正面から戦おうなんて考えがもうおかしいんだってば!」 「……、」  上条は、答えない。  ただ|黙《だま》って、片ヒザをついた状態からさらに立ち上がろうと、両足に力を込める。 「|一方通行《アクセラレータ》の能力の正体は『運動量、熱量、電気量などを問わず、あらゆる種類の�|向《ベクトル》き�を、|皮膚《ひふ》上の体表面に触れただけで自在に操る事ができる』ことよ。正体分かったって突破口が見つからないような、そんな反則なのよ!」美琴は|理不尽《りふじん》な現実に向かって叫ぶように、「あっちの|攻撃《こうげき》は全部届くのにこっちの攻撃は届かないばかりか、|撃《う》てば撃っただけこっちに反射してくる。こんなふざけた一方通行じゃ、どんな人間だって|太刀打《たちう》ちできないでしょ!」 「……、」  上条は、答えない。  震えるピザに全力を注ぎ込み、がちがちに震えたまま立ち上がろうとする。 「アレは違うのよ、|能力者《わたしたち》とはどっか次元のズレた存在って考えた方が良い。ハナから反則な人間に正面からぶつかったって勝てるはずがない。まして、アンタはそんなにボロボロじゃない! そんな、そんな状況で、あんな化け物に—————、」  —————勝てるはずがない、と。  美琴は今にも泣きそうな声で訴えた。上条に、もう立たないでくれ、と。 「……、」  それでも、上条は答えない。  今にも崩れ落ちそうな体を動かし、ゆっくり、ゆっくりと上体を起こしていく。  どうして?と。美琴は道に迷った子供みたいな声をあげた。 「……、」  上条だって、分からない。  |一方通行《アクセラレータ》がどれだけ強いかなんて|知《し》らない。  こんなボロボロの体で何ができるかも分からない。  それでも、上条の右手には|幻想殺し《イマジンブレイカー》が宿っていて、  そして、右の|拳《こぶし》を握るだけの理由が胸の内には確かに存在した。  |他《ほか》の|誰《だれ》に|頼《たよ》るのでもなく、他の何を期待するのでもなく。  自分のこの手で、|一方通行《アクセラレータ》に追いやられ|行《デツド》き|止《エン》まりに|追《ド》い詰められて動けなくなった女の子を助ける事ができるなら、それはとても素晴らしい事だと思えたから。  そうして、|上条《かみじよう》は立ち上がる。  他ならぬ、自分の足で大地を踏みしめて。 「|御坂《みさか》、お前は元々|一方通行《アクセラレータ》の所へ行こうとしてたんだよな————」  上条は、|美琴《みこと》の顔を見る。  |随分《ずいぶん》と久しぶりに見たような気がする美琴の目は、泣き疲れて真っ赤になっていた。 「————教えろ、御坂。アイツはどこで『実験』を始めようとしてんだよ」      3  御坂妹が|辿《たど》り着いたのは列車の操車場だった。  路線バスで言うなら車庫に当たる、たくさんの電車を整備したり、終電を走り終えた列車を置いておく場所だ。学校の校庭ぐらいの広さの大地には線路と同じような|砂利《じやり》が一面に敷き詰められ、一〇本以上のレールが平行にズラリと並んでいる。線路の先には港の貸し倉庫みたいな、大きなシャッターのついた車庫が並んでいて、操車場の外周をぐるりと取り囲むように、貨物列車に使う金属コンテナが大量に置いてあった。まるで積み木のように何段にも重ねられたコンテナの高さは三階建ての建物に匹敵するほどで、乱雑に山積みされたコンテナのおかげで操車場の周りはさながら立体迷路のように入り組んでいた。コンテナが山ならば、その中にある操車場は盆地のようなものだろう。  操車場に人気はない。  終電が完全下校時刻という学園都市では、操車場からも早々に人気がなくなる。作業用の電灯も落とされ、周囲に民家もない状態なので光もない。そこは二三〇万人もの人間が住む大都市にも|拘《かか》わらず、夜空を見上げると|普段《ふだん》は見えない星の|瞬《またた》きまで見つけられるほどの|闇《やみ》に包まれていた。  そんな無人の闇の中心に、ソレは立っていた。  学園都市最強の能力者、|一方通行《アクセラレータ》。  周囲の闇と同化するその姿を見て、御坂妹は自分がまるで操車場という、|一方通行《アクセラレータ》の巨大な臓物の中に放り込まれたような、そんな|錯覚《さつかく》を覚えた。  黒い闇の中、白い少年は笑う。  まるで目玉を熱湯の中に放り込んでグツグツ|茄《ゆ》でたような、そんな|不気味《ぶきみ》な白色が。 「時刻は八時二五分ってトコかァ。ンじゃ、オマエが次の『実験』の|ダミー人形《ターゲツト》って事で構わねェンだな?」  引き裂かれる笑みの口から、白い|闇《やみ》が噴き出したような|一方通行《アクセラレータ》の声。  しかし、|御坂《みさか》妹は|眉《まゆ》一つ動かさず、 「はい、ミサカの|検体番号《シリアルナンバ 》は一〇〇三二号です、とミサカは返答します。ですが、その前に実験関係者かどうか、念のために|符丁《パス》を確かめるのが妥当では? とミサカは助言します」 「……、チッ」  調子が狂う、と|一方通行《アクセラレータ》は吐き捨てた。 「まァ、|俺《おれ》が強くなるための『実験』に付き合わせてる身で言えた義理じゃねェンだけどさ、平然としてるよなァ。ちっとは何か考えたりしねェのか、この状況で」 「何か、という|曖昧《あいまい》な表現では分かりかねます、とミサカは返答します。『実験』開始まで後三分二〇秒ですが、準備は整っているのですか、とミサカは確認を取ります」  |一方通行《アクセラレータ》はわずかに目を細める。うんざりしたような顔で、口の中で何かを|噛《か》んだ。くちゃくちゃと。まるでガムを噛み|潰《つぶ》して甘ったるい味を引き出しているように。 「? 何を摂取しているのですか? とミサカは問いかけます」 「ああ[#「ああ」に傍点]、指[#「指」に傍点]」  |一方通行《アクセラレータ》は何の気なしに言って、口の中の物を|唾《つば》のように横合いへ吐き捨てた。  噛み砕かれ、|唾液《だえき》にまみれたぐちゃぐちゃの肉片は、  それでも、女の子の細い指先の原型をかろうじて|留《とど》めていた。 「ついで[#「ついで」に傍点]なンでちょいと拝借してみたンだけどよォ、人肉ってなそれほど|美味い《うま》いモンでもねェンだな。聞いた話じゃ脂肪が少ねェとか|酸《す》っぱい味がするとかってェウワサだったが、こりゃそれ以前だぜ。噛ンでみっとさァ、ブチブチって細い束を|千切《ちぎ》ったような感触がする。やっぱ|喰《く》われるために進化したブタや牛ってなァ偉いモンだよなァ?」  |一方通行《アクセラレータ》は口の中の味を取り払うように腕を使って|唇《くちびる》を|拭《ぬぐ》う。  だが、御坂妹はそんな仕草にも眉一つ動かさず、 「一般の豚肉や牛肉は血抜きを行い、塩や香辛料によって下味のつけられたものです、とミサカは助言します。さらに加熱する事によりタンパク質に変質が見られるため、生の状態の肉と味覚を比較するのは、検証実験として条件に誤差が生じているのでは? とミサカは率直な意見を伝えます」  そうかよ、と|一方通行《アクセラレータ》はうんざりしたような声で答えた。  御坂妹には、どうして|一方通行《アクセラレータ》がそんな質問をするのかが分からない。確かに、御坂妹は古本屋の前で|一方通行《アクセラレータ》を見てゾッとした。だがそれは、足元に黒猫がいたからだ。この『実験』のせいで、全く無関係な命が奪われる事を恐れただけだった。 「ったく、一万回も繰り返してっとイイ加減に飽きが回ってくるンで、ちったァ|暇《ひま》でも潰してみようと考えたンだが、こりゃダメだなァ。やっぱオマエとは会話になンねェわ」  |一方通行《アクセラレータ》はのんびりした調子で言った。 「自分の命を投げ打つなンざ|俺《おれ》には理解できねェな。俺は自分の命が一番だしさア、自分の体が最高だって考えてンだよ。だからこそ力を欲する事に際限はねェし、そのためならオマエ|達《たち》が何百何千何万と死のうが知ったこっちゃねェって鼻で笑う事もできンだぜ?」 「ミサカの方こそ、あなたの言動には理解できない部分がある、とミサカは答えます。あなたはすでに学園都市で最強の|超能力者《レペル5》でしょう? すでに|誰《だれ》にも追い着けない位置に立っているならば、それ以上『上』を目指す必要性など感じないのでは、とミサカは予測します」 「最強、ねェ」  |一方通行《アクセラレータ》はつまらなそうに答える。 「最強、さいきょう、サイキョーってかァ? そりゃ確かにそォだ、俺はこの街で一番強い能力者だし、それはつまり世界で最高の能力者って事だろォけどさァ」  けどな、と|一方通行《アクセラレータ》は心底つまらなそうに答えた。 「結局、俺はまだ最強止まりなンだよ[#「俺はまだ最強止まりなンだよ」に傍点]。この俺は学園都市で最強の能力者。ふン、そンじゃどォして周りの連中はそれを知ってンだ? ぶっちゃけさア、実際に|一方通行《アクセラレータ》と戦ってみて負けたから、だろオ? それって逆に言えば俺の強さは、面白そうだから試しにアイツにケンカを売ってみよう[#「面白そうだから試しにアイツにケンカを売ってみよう」に傍点]、って程度にしか思われてねエって事だよなァ」  その赤い|瞳《ひとみ》が、一転して愉快げに笑う。 「ダメだよなァ。そンなンじゃ全然ダメだ。そんな|最強《レペル5》じゃ全くつまンねェ。俺が目指してンのはその先なンだよ。『挑戦しよう』と思う事が|馬鹿馬鹿《ばかばか》しく聞こえるぐらいの、そもそも相手が『戦おう』って思う事すら許さねエほどの、絶対的な強さ」  そんな『|無敵《レベル6》』って存在に|憧《あこが》れている、と。  己の夢を語る少年は、その細い二本の手をそれぞれ横合いへとゆっくり伸ばした。  右の苦手、左の毒手。  共に触れただけで人を殺す|毒蛇《どくへび》のような両手を水平に広げ、少年は笑う。  まるで闇噴く十字架のように。 「そンじゃ、もうイイか? そろそろ死ンじまえよ。出来損ない乱造品」  |嘲《あざけ》るように笑う白い少年に、けれど|御坂《みさか》妹は|眉《まゆ》一つ動かさない。  彼女はただ、時計仕掛けの人形みたいな声で淡々と告げた。 「午後八時二九分、四五秒、四六秒、四七秒————これより第一〇〇三二次実験を開始します、被験者|一方通行《アクセラレータ》は所定の位置に着いて待機してください、とミサカは伝令します」  こうして。  午後八時三〇分、|避《さ》けられぬ『実験』が始まった。      4  |上条《かみじよう》は黒猫をひとまず|美琴《みこと》に預けると、一人夜の街を走っていた。  学園都市の西の外れには大きな工業地帯がある。  そこにある列車の操車場が、第一〇〇三二回目の『実験場』らしい。 「……、っ」  一〇〇三二、という数字には聞き覚えがあった。路地裏で|御坂《みさか》妹が自分の|検体番号《シリアルナンバー》を語った 時の言葉だ。  まさか、という|焦《あせ》りが上条の胸に|襲《おそ》いかかる。  だが、一刻も早く『実験場』へ向かわなければならないのに、バスも電車も最終下校時刻であっさりと車庫へ帰っていた。  交通機関の大半が眠りに就いている以上、上条は自分の足で走るしかない。  自分の体力が残り少ない事は分かっていても、冷静にペース配分を考えて走るだけの余裕はない。上条は歯を食いしばってひたすら全力で|繁華街《はんかがい》を駆け抜ける。  ボロボロの体を動かし、ただでさえ残り少ない体力を削るように走り続ける。  繁華街を抜け、住宅街を走り、少しずつ街の|喧騒《けんそう》や|灯《あか》りが遠ざかっていくような気がした。さらに走ると、|学生寮《がくせいりよう》もまばらになってくる。人工的に植えられた小さな林をくぐり抜けると、そこが工業地帯だった。  学園都市は自分|達《たち》が考案した研究品を『製品化』するための工業地帯を持っている。しかし、それらは下町の|薄汚《うすよご》れた貸し倉庫みたいな町工場とは違う。背の高い、けれど窓のない『工業ビル』が延々と建ち並ぶ街だった。区画は妙に整理され、逆に生活観が|欠片《かけら》もない。オフィス街のようなものを連想してもらえれば手っ取り早いかもしれない。  街には|誰《だれ》もいなかった。  工場は二四時聞体制で|稼動《かどう》しているだろうが、完全な防音処置を|施《ほどこ》されているため何の物音も聞こえない。まるで死んだ街のような景色に、上条は真夏の夜に寒気を覚えた。  鉄橋に一人残された美琴は、両手で|脅《おび》える黒猫を抱えていた。  そう言えば無意識の内に体から放出してしまう電磁波を動物は嫌うんだったか、と美琴はどうでも良い事を思い出す。 「……、ばっかみたい」  美琴は一人、|暗闇《くらやみ》の中で|呟《つぶや》いた。  彼女は上条を止めたかった。せめて、上条と|一緒《いつしよ》に『実験場』へ向かいたかった。  だが、上条はダメだと言った。  重要なのは、|無能力者《イマジンブレイカー》が一人で|超能力者《アクセラレータ》を倒す事だから。その現場に|超能力者《レペル5》の|美琴《みこと》がいて、なおかつ|上条《かみじよう》の味方をすると、|一方通行《アクセラレータ》を、|超能力者《レベル5》を含む複数人で倒しただけ』という結果しか得られないから。  |御坂《みさか》妹を助けたければ、ここは|俺《おれ》に任せてくれ、と少年は言った。  絶対に、御坂妹を連れて帰ってくるから、と少年は約束した。  美琴は少年の消えた鉄橋の先を見た。  理屈では分かる。美琴が『実験場』へ行った所で何もできない。それどころか、少年がようやく手に入れた『解決法』を|壊《こわ》してしまう可能性すら出てくる。だから、美琴はここで待つべきだ。そんな事は分かっている。理屈の上なら|誰《だれ》でも分かる。  だけど、  理屈以外の何かが、理解したくなかった。  美琴は、ギッと奥歯を|噛《か》み締めて、 「—————、んな事が、できるとでも思ってんの、アンタは!」  結局、黒猫の首根っこを|掴《つか》んだまま美琴は上条の後を追っていた。  放っておく事など、できるはずがなかった。      5  午後八時三〇分をもって、操車場は戦場と化した。  |灯《あか》りのない操車場に、カメラのフラッシュのような青白い|閃光《せんこう》が|瞬《またた》く。  御坂妹と |方通行《アクセラレータ》、二つの足音が|砂利《じやり》を|蹴《け》る。  両者の距離は、 一〇メートルもなかった。 「ハッ、何だア無策にのこのこ歩いてきやがって。ンなに痛みが好きならたっぷり鳴かせてやるから今から|喉飴《のどあめ》でも|舐《な》めてろ!」  |一方通行《アクセラレータ》が両手を広げたまま身を|屈《かが》め、|獣《けもの》のように御坂妹へ|肉薄《にくはく》する。  それに防御という|概念《がいねん》は必要ない。|攻撃《こうげき》という概念すら必要ない。あらゆる攻撃を反射し、触れただけで相手を必殺する人間にとって戦いとは、ただいかにして確実かつ最速で相手に接触するか、それだけを考えれば良い。  あらゆる攻撃を反射する以上、その足を止める事はできない。まるで人間のデモ隊の真ん中に戦車が突っ込んでいくような、あまりに|理不尽《りふじん》な暴力を前にして、御坂妹は 「あァ?」  |一方通行《アクセラレータ》の不服そうな声。御坂妹は、追い駆ける一|方通行《アクセラレータ》から逃げるように、ひたすらバックステップを踏み距離を取っていた。右へ左へ、周囲の状況を見渡しながら延々と逃げ続ける|御坂《みさか》妹に心底つまらなそうな目を向けながら|肉食獣《アクセラレータ》は追いすがる。 「何だよ何だ何ですかアこの|無様《ぶざま》は? おいおいオマエ一体何を期待してるンだっつの、どれだけ時間稼いだ所で奇跡なンざ起きるわきゃねエだろ、あァ!」  御坂妹は聞かない。ひたすらに敵を視界に収めつつ距離を取り続ける。いい加減に頭の血管が切れそうになった|一方通行《アクセラレータ》は、その時ピリピリと周囲の空気が帯電している事に気づいた。 「つっまンねエヤロウだなオマエ、ンな事やったって|無駄《むだ》なンだっつの分っかンねェかなァってか|俺《おれ》はこれから延々とオマエの悪あがきに付き合ってくってのか、ありえねェ!」  |一方通行《アクセラレータ》は鼻で笑う。どんな|攻撃《こうげき》がきた所であらゆる攻撃は反射できるし、何より御坂妹はそれを恐れているのか直接|一方通行《アクセラレータ》を電撃で|撃《う》とうとしない。火花は彼の周囲で散るだけで、たった一度も攻撃らしい攻撃はやってこないのだ。  何なんだコイツは、と|歯噛《はが》みしている|一方通行《アクセラレータ》は、そこで息切れを起こしている自分に気づく。走りながらしゃべりすぎたせいで酸素を食ったか、と思ったが、どうも様子がおかしい。 何か鼻につく、鋭い異臭が警告を鳴らしている。 「今夜は、風がないのですね——————」  御坂妹の声が、無風の操車場に|響《ひび》き渡る。 「————ならば、ミサカにも勝機があるかもしれません、とミサカは言い捨てます」  |一方通行《アクセラレータ》はもう一度周囲の状況を確かめる。逃げ続ける御坂妹、周囲に放たれる電撃、妙な息切れ、そして直接攻撃は|全《すベ》て反射してしまう|一方通行《アクセラレータ》。 (はァン、なるほどね。オゾンって訳かョ?)  空気中の酸素は電気によって分解する事ができる。そして、通常なら酸素原子二つで『酸素』分子を作っているのに対し、一度二つに分解された酸素原子は、今度は三っ|繋《つな》がって『オゾン』を作る性質を持つ。  酸素とオゾンは別物だ。吸い込んだ所で肺が満たされる事はない。  そして、その用途が除菌・殺菌である事から分かる通り、オゾンは有毒だ。  あらゆる攻撃を受け付けない|一方通行《アクセラレータ》だが、その身が酸素を吸って二酸化炭素を吐き出す人間である事に変わりはない。ならば……彼の周りの酸素を根こそぎ奪えば、酸欠状態に持ち込む事ができる。  御坂妹が|一方通行《アクセラレータ》に近づく必要はない。むしろ|一方通行《アクセラレータ》からできるだけ遠ざかり、彼の攻撃が当たらない位置から酸素を奪い続ける事こそが重要となる。 「イイねイイね最っ高だねェオマエ!訂正してやるよオマエきっちり俺の敵やってンじゃン! ははっ、退屈しねエな、|流石《さすが》に一万回もぶっ殺されてりゃ悪知恵の一つでも働くってかァ!」  愉快に笑いながら追いすがる|一方通行《アクセラレータ》は、追い詰められているにも|拘《かか》わらず心底楽しそうに笑っている。 「だ・け・ど。弱点が一つ!」  ギクリ、と|御坂《みさか》妹の肩が|一瞬《いつしゆん》大きく|震《ふる》えた瞬間、 「オマエが追いつかれちまったらこの作戦は失敗だよなァ!!」  |一方通行《アクセラレータ》の踏み込む足が、いきなり背後に|砂利《じやり》を爆発させた。足にかかる運動量の『向き』を変更させたのだろう。まるで足の裏がロケット噴射でも起こしたように、たった一歩で七メートルもの距離を、弾丸のように駆ける。ギョッとした御坂妹がさらに後ろへ飛び下がろうとした瞬間———無情にも、その何倍も速く一|方通行《アクセラレータ》が御坂妹の|懐《ふところ》へと飛び込んだ。 「おら、死ぬ気で|避《よ》けなきゃホントに死ンじまうそォ!」  叫びと共に放たれた左手の|一撃《いちげき》は、|頬《ほお》を|撫《な》でるように|優《やさ》しかった。……にも|拘《かか》わらず、それを受けた御坂妹の首がゴキリと|嫌《いや》な音を立てる。グルンと視界が回転し、御坂妹の体はまるで竹とんぼのように回転しながら砂利の上へと|叩《たた》きつけられる。  それでも、手加減されていた。  |一方通行《アクセラレータ》が本気で殺しにかかったら、|皮膚《ひふ》に触れた瞬間に体が爆散しているはずだ。 「さァって、 一つだけ質問だ。オマエは何回殺されてエンだっつのっ!」  |壊《こわ》れたように笑う|一方通行《アクセラレータ》が、|覆《おお》い|被《かぶ》さる|闇《やみ》のように見える。  引き裂いたような笑みが視界いっぱいに広がる。  よだれでもこぼしそうなほど大きく開いた口が何か|罵声《ばせい》を放っている。  そこから先は、|一方通行《アクセラレータ》の|独壇場《どくだんじよう》だった。体を丸める御坂妹の防御の|隙間《すきま》を|縫《ぬ》うように靴のつま先が突き刺さり、丸めた背中を打ち据えるように|拳《こぶし》が飛来する。一撃一撃は死なない程度に体を壊すぐらいの力加減で、御坂妹はドラム缶の中に投げ込まれ、外から金属バットで何度も|殴《なぐ》られるような、そんな激痛の渦の中へと突き落とされた。 「ご、ふっ……!?」  体を丸める事すら困難になった御坂妹は、腹に突き刺さった|蹴《け》りの威力に負けて、ごろんと|仰向《あおむ》けに転がった。額が切れたせいか、血が流れ込んで片目が見えない。ぼんやりと|霞《かす》む視界の中、|一方通行《アクセラレータ》が荒い息を吐いていた。だらだらと、引き裂かれた笑みから流れるよだれを手で|拭《ぬぐ》っている。  これだけの事をされても、御坂妹はまだ一|方通行《アクセラレータ》の事を恨んだりしなかった。憎みたくても憎めないのではなく、単に御坂妹は自分の命に価値を|見出《みいだ》していなかったからだ。こうして単価一八万円の御坂妹の命を使った『実験』は終わり、彼女の死体は解剖の終わったカエルの|残骸《ざんがい》を処分するように回収される。  たったそれだけだ。  たったそれだけのはずだ。  なのに、ふと何かに気づいたように|一方通行《アクセラレータ》は動きを止めた。彼はゆっくりと、肩越しに背後を振り返って、何かを見る。 (なに、が……?)  |仰向《あおむ》けに倒れている|御坂《みさか》妹の位置からだと、ちょうど立ち|塞《ふさ》がる|一方通行《アクセラレータ》の体が壁となって彼が何を見ているかが分からない。だが、|一方通行《アクセラレータ》はそのまま凍り付いていた。彼にとっては『最強』から『無敵』へ昇華するための大事な『実験』であるはずなのに、そんな事も忘れてしまったかのように。 「……、おい。この場合、『実験』ってなァどうなっちまうンだ?」  |一方通行《アクセラレータ》は、凍りついたままポツリと尋ねてきた。  自分が殺そうとしていた相手に向かって何かを尋ねるというのも変な話だ、と御坂妹はぼんやりと考える。しかし、|一方通行《アクセラレータ》はいつまで|経《た》ってもそのまま動かない。  御坂妹は|砂利《じやり》の上を|這《は》って移動し、|一方通行《アクセラレータ》の見ているものを、視線で追い駆けた。  操車場の外周付近———山積みとなったコンテナの|隙間《すきま》の辺りに、|誰《だれ》かが立っていた。  そこには、『実験』と何の関係もない一般人が立っていた。  |上条当麻《かみじようとうま》が、立っていた。  一般人に「実験』へ介入された時のマニュアルというのを|一方通行《アクセラレータ》は知らないのだろう。突 然現れたただの高校生を、どう扱って良いか分からないという顔で見て、 「……離れろよ、テメェ」  |上条《かみじよう》は、そんな|一方通行《アクセラレータ》に突き刺すように言った。  まるで、触れればそれだけで静電気でも飛び散りそうな怒気が全身を包んでいた。 「今すぐ、|御坂《みさか》妹から、離れろっつってんだ。聞こえねえのか」  上条の言葉に、|一方通行《アクセラレータ》は|嫌《いや》そうに|眉《まゆ》を|輩《ひそ》めた。それから、ようやく御坂妹の方へと振り返る。|若干《じやつかん》、非難めいた赤い視線を向けて、 「おい。ミサカってなオマエの原型の名前だよなァ? それを知ってるって事は、ありゃオマエの知り合いって事かよ。おいおい|頼《たの》むぜ、関係ねェ一般人なンざ『実験場』に連れ込ンでンじゃねェよ」  |一方通行《アクセラレータ》は、何か|興醒《きようざ》めした、という顔を浮かべ、 「……、ホントさア、マジで頼むぜ。で、どうすンだよこれ。『実験』の秘密を知った一般人の口は封じる、とかってェお決まりの展開かァ? くそ、後味悪りイな。なンせ使い捨ての人形じゃなくてマジモンの一般 「ぐちゃぐちゃ言ってねえで離れろっつってんだろ、|三下《さんした》!!」  落雷のような上条の怒号に、|一方通行《アクセラレータ》の言葉が詰まった。  まるで信じられないものでも見るかのように、|一方通行《アクセラレータ》は上条の顔を見た。  何か、生まれて一度も怒られた事のないまま育ってしまった子供のように。 「オマエ、ナニサマ? |誰《だれ》に|牙剥《きばむ》いてっか分かって口開いてンだろうなァ、オイ。学園都市でも七人しかいねエ|超能力者《レペル5》、さらにその中でも|唯一無二《ゆいいつむに》の突き抜けた頂点って呼ばれてるこの|俺《おれ》に向かって、三下? オマエ、何なンだよ。カミサマ気取りですか、笑えねェ」  低い、静かな声に混じって静電気のような殺気が周囲の空気へ|漏《も》れていく。  夜の|闇《やみ》の|全《すべ》てが何億もの眼球となって上条を|睨《にら》みつけるような、絶大なる殺意。 「————、」  それでも、少年は|一方通行《アクセラレータ》を睨みつけていた。  たとえ相手が最強だろうが最高だろうが最良だろうが、知った事ではないと。|灼熱《しやくねつ》するその眼光は無言のままに告げていた。 「……、ヘェ。オマエ、|面白《おもしれ》ェな—————」  |一方通行《アクセラレータ》の、赤い|瞳《ひとみ》が凍る。 『最強』と『無敵』は違う。『無敵』が戦う前から勝負が決まっているのに対し、『最強』は実際に戦ってみて初めて強さが分かるものだ。  つまり逆に言えば、  |一方通行《アクセラレータ》の最強は、試しにケンカを売ってみよう、と思われる程度のものでしか———。 「————オマエ、本当に|面白《おもしれ》ェわ」  |一方通行《アクセラレータ》の視界は、|御坂《みさか》妹から|上条《かみじよう》へと移された。『実験』の事などさておき、とにかく上条の視線を|潰《つぶ》す方が一〇〇倍先決だと言わんばかりに。  白い少年の|瞳《ひとみ》に、紅い狂熱が宿る。  その笑みが|薄《うす》く広く———まるで溶けたチーズが左右へ伸びるように引き裂かれていく。 「……、」  それでも、上条はたった一歩も下がらない。  さらに一歩、その足は前へと踏み出される。 「な、にを、——————」  御坂妹はギョッとした。  あの少年は、これから|一方通行《アクセラレータ》と戦おうとしている。あんな、たった一人で笑顔のままに軍隊と敵対して潰し回れるような人間を相手に、何の武器も持たずに。  あの少年は、|一方通行《アクセラレータ》に向かって言った。  さっさと御坂妹から離れろと、そう言った。  つまり、あの少年が戦場へやってきた理由は。  あの少年が、命を|賭《か》けて戦おうとする理由は。 「—————、やっているんですか、とミサカは問いかけます」  御坂妹は|震《ふる》える声で|呟《つぶや》いた。 『———そ、そっか妹か。けど似てんなー。身長休重もおんなじレベルじゃねーの?』  この『実験』で、命に価値のない御坂妹がいくら死のうが知った事ではない。 『———うっす。昨日はジュースとノミの件、さんきゅーな』  だが、『実験』と全く関係ない、量産する事もできない、 『———そうだ、名前! こいつはお前の猫なんだから、責任持ってお前が決めろよー。』  世界にただ一人の|一般人《オリジナル》が、『実験』のせいで傷つくなんて事は————、 (なん、ですか……これは、と————)  御坂妹の中で、何かがじくりと痛んだ。  御坂妹はどれだけ考えても、その痛みの正体が分からない。 (————ミサカは、自分の心理状態に疑問を、抱きます)  それでも、上条は答えない。さらに一歩、戦場へと足を踏み出す。  御坂妹は思考を切り替え、上条を止めるために言葉を|紡《つむ》ぐ。 「何をやっているんですか、とミサカは再度問いかけます。いくらでも替えを作る事のできる模造品のために、替えの|利《き》かないあなたは一体何をしようとしているのですか、とミサカは再三にわたって問いかけます」  論理に|矛盾《むじゆん》はない。口調に乱れはない。まるで定規で測ったような、|仕掛け《プログラム》通りに動いているだけのような|台詞《せりふ》に、|御坂《みさか》妹は自分の心理状態は|正常値《オールグリーン》だ、と結論づける。  にも|拘《かか》わらず、心臓は恐ろしく速い鼓動を刻んでいた。呼吸は信じられないほど浅く、何度吸っても酸素を取り込めない。  あの少年が、『実験場』に入ってくる事を、御坂妹は止めたい。  あの少年が、|一方通行《アクセラレータ》と激突してしまう事を、御坂妹は阻止したい。  なのに、役に立たないボロボロの体はまともに動かなかった。だから、御坂妹は|砂利《じやり》の上を転がったまま、戦場へ向かってくる少年を止めるために言葉を|紡《つむ》ぎ続ける。  その言葉こそが、少年を戦場へ呼び寄せている事にも気づかずに。 「ミサカは必要な器材と薬品があればボタン一つでいくらでも自動生産できるんです、とミサカは説明します。作り物の体に、借り物の心。単価にして一八万円、在庫にして九九六八も余りあるモノのために『実験』全体を中断するなど—————」 「……、うるせえよ」  御坂妹の言葉を|遮《さえぎ》るように、少年はポツリと|呟《つぶや》いた。  な、に? と御坂妹が聞き返すと、 「うるせえんだよ、お前は。そんなもん、関係ねえんだよ。作り物の体とか、借り物の心とか。必要な器材と薬品があればボタン一つでいくらでも自動生産できるとか、単価一八万円とか。そんなもん、知った事じゃねえ!そんな言葉はどうだって良いんだよ!」  少年は、烈火のような怒りを、夜空に向かって|吼《ほ》えるように叫んでいた。  それでいて、少年の声は、冷たい雨に打たれたように、痛々しかった。 「|俺《おれ》は、お|前《ヘへ》を助けるためにここに立ってんだよ! |他《ほか》の|誰《だれ》でもない、お|前《ヘマ》を助けるために戦 うって言ってんだ! だから作り物の体とか借り物の心とか必要な器材と薬品があればとかボタン一つでいくらでも自動生産できるとか単価一八万とか、そんな小っせえ事情なんかどうでも良い!」  御坂妹には、分からない。  あの少年が何を言いたいのか、それが分からない。だって、御坂妹が言った事には一つもウソはない。御坂妹はボタン一つでいくらでも自動生産できる存在だ。一人欠けたら一人補充して、二万人欠けたら二万人追加すれば済む。たったそれだけの存在のはずだ。 「—————お前は、世界でたった一人しかいねえだろうが! 何だってそんな簡単な事も分っかんねえんだよ!」  だけど、血を吐くように叫ぶ少年の声は、|何故《なぜ》か御坂妹に届いた。  少年の言葉を信じた訳ではない。  |御坂《みさか》妹は、やっぱり自分の命なんていくら失っても問題ない、と思っている。  それでも、そんなちっぽけな存在でも、失いたくないと叫んでくれる人が、確かに存在した。  あの少年には、きっと力なんて何もない。  学園都市で最強だとか、そんな名前で呼ばれるほどの何かを持っている訳でもない。 「勝手に死ぬんじゃねえぞ。お前にはまだまだ文句が山ほど残ってんだ—————」  それでも、御坂妹は少年を『強い』と思った。 「—————今からお前を助けてやる。お前は|黙《だま》ってそこで見てろ」  その生き方は、他の何者よりも『強い』と思う事ができた。      6  |一方通行《アクセラレータ》は最強ではあっても無敵ではない。  |上条《かみじよう》の|幻想殺《イマジンブレイカー》しは、相手が『異能の力』である限りは、触れただけで神様の奇跡すら打ち砕く。いかに|一方通行《アクセラレータ》の『反射』が核爆発すら跳ね返すような絶対防御だったとしても、上条の右手だけは防げないはずだ。  |一方通行《アクセラレータ》が、世界中の|全《すべ》てが束になっても|敵《かな》わないような『最強』であっても、  世界でたった一つ、|幻想殺《イマジンブレイカー》しすらも防ぐような『絶対』ではないのなら、  その誤差に、必ず勝機がある。 「—————、」  上条は周囲の状況を見る。  辺り一面、周囲一〇〇メートル近くにわたって広がるのは|砂利《じやり》と鋼鉄レールの敷き詰められた大地。隠れる場所のない平面に立つのは、上条|当麻《とうま》と|一方通行《アクセラレータ》。お互いの距離は一〇メートル。全力で駆ければ、三歩か四歩で詰められる程度の距離しかない。  上条は呼吸を止め、  全身のバネを縮めるように、わずかに身を低く沈め、 「お、—————オおおっ!」  まるで爆発するように、|一方通行《アクセラレータ》目がけて勢い良く駆け出す。  だが、|一方通行《アクセラレータ》はその場を動かない。どころか、|拳《こぶし》の つも握らない。両手はだらりと下がったまま、両足もろくに重心を計算に入れず、顔には引き裂かれたような笑みを浮かべ、  たん、と。  |一方通行《アクセラレータ》は、まるでリズムを刻むように、足の裏で小さく砂利を踏んだ。 ゴッ!! と。 |瞬間《しゆんかん》、|一方通行《アクセラレータ》の足元の砂利が、地雷でも踏んだように爆発した。  四方八方へと飛び散る大量の|砂利《じやり》は、言うならば至近距離で放たれる|散弾銃《シヨツトガン》を連想させた。 「……ッ!」  |上条《かみじよう》が気づいた時にはもう遅い。  とっさに両腕で顔を|庇《かば》った|瞬間《しゆんかん》、ドン! という鈍い|轟音《こうおん》と共に大小一〇を超す小石が上条の全身を|叩《たた》いた。あまりの|衝撃《しようげき》に上条の脚が地面からふわりと離れる。と思った瞬問、上条の体が勢い良く後ろへと吹き飛ばされた。ゴロゴロと転がる上条は、何メートルも後方へ吹き飛ばされてようやく止まる事ができた。 「……|遅《お》っせェなァ」  激痛に|眩《くら》む上条の意識に割り込むような、|錆《さ》びた金属を|擦《こす》り合わせる不快な声が|響《ひび》く。  上条は立ち上がる事も忘れてぼんやりと声のした方を見ると、 「全っ然、足りてねエ。オマエ、そンな速度じゃ一〇〇年遅せェっつってンだよォ!」  |一方通行《アクセラレータ》が地を踏みつける。  その衝撃の『向き』をどう変換しているのか、|一方通行《アクセラレータ》の足元に寝かされていた鋼鉄のレールが一本、バネに|弾《はじ》かれるように直立した。|一方通行《アクセラレータ》は|裏拳《うらけん》で目の前のクモの巣でも払うよう に、直立したレールを|殴《なぐ》り飛ばす。  まるで聞き分けのない子供を軽く叩くような仕草。  にも|拘《かか》わらず、ゴォン!! と教会の|鐘《かね》のような轟音が操車場に響き渡った。くの字に折れ曲がった鋼鉄のレールが、まるで砲弾のような勢いで上条の元へと一直線に飛んでくる。 「!!」  上条は慌てて地面を転がり、跳ね飛ぶようにその場を離れる。  直後、ひしゃげた|鋼《はがねか》の|塊《たまり》がついさっきまで上条の寝ていた地面に聖剣のように突き立つ。  間一髪||避《さ》けられた———そう思った上条だったが、重量何百キロという鋼の塊は、地面に直撃した瞬間に辺りへ大量の砂利を巻き上げた。ちょうど、海面に|阻石《いんせき》が落ちた時のように。  上条の全身に、無数の小石が突き刺さる。  胸を打つ衝撃が、肺の中から|全《すべ》ての酸素を吐き出させる。 「がっ…、は……ッ!」  地面を転がる上条へ、|一方通行《アクセラレータ》はさらに二発、三発と鋼鉄のレールを飛ばしてきた。  宙を舞う鋼の砲弾は、|拳銃《けんじゆう》の弾丸と同じく人に避けられるものではない。  直撃すれば確実に死に、たとえギリギリで避けた所で巻き上げられる大量の砂利が散弾の雨となって少しずつ着実にダメージを重ねて死へ追い詰める。  そんな中で上条にできるのは、地面を転がり続ける事だけだった。砲弾が地に突き刺さる事で巻き上げられる砂利の方向を読み、それと同じ方向へ自ら飛ぶ事で少しでもダメージを軽減する……それぐらいの事しかできない。  近づけない。  一〇発、二〇発と|鋼《はがね》の砲弾を|回避《かいひ》し、散弾に体を|叩《たた》かれていく内に、|上条《かみじよう》は徐々に操車場の中心から外側へと|誘導《ゆうどう》されていく。  それでも、戦場は|膠着《こうちやく》状態にあると上条は思っていた。  確かに一方的に|攻撃《こうげき》を受けているが、それでも|一方通行《アクセラレータ》は上条に決定打を浴びせ損ねていると、上条は信じていた。  だが。ヒュン、という風切り音が上条の思考を断ち切る。 「……?」  その|瞬間《しゆんかん》、レールが飛んできたと思った上条はとっさに後方へと飛んでいた。散弾のように飛び散る雑から少しでも|衝撃《しようげき》を殺すために。そう思った行動なのに、|何故《なぜ》か鋼鉄の砲弾は飛んでこない。  警戒しながらも、警戒しながらも、|訴《いぶか》しむように|眉《まゆ》を|顰《ひそ》める上条の、  頭上を軽く追い越して、上条の背後の地面に鋼鉄のレールが勢い良く突き刺さった。 「!?」  上条はその時、ダメージを殺すために自分から後方へと飛んでいた。  そこへ逆方向から砂利の散弾が至近距離で|襲《おそ》いかかったのだ。言うなれば時速一〇〇キロで進むトラックに、同じく時速一〇〇キロで正面衝突するようなものである。自ら倍加してしまったダメージが、上条の背中に勢い良く突き刺さる。まるでバットで背中を思い切り|殴《なぐ》られた ように呼吸が詰まり、上条は|無様《ぶざま》に地面の上へ倒れ込んだ。  ヒュンヒュン、という風切り音が夜空から|響《ひび》いてくる。  顔を上げた上条は、空から降ってくる何本もの鋼鉄のレールを見た。 (な……っ)  上条はとっさに転がって回避しようとしたが、レールは前後左右に同時に突き刺さった。四方八方から、まるで五、六人にリンチされるように大量の砂利が襲いかかる。  これでは防御も回避もできない。選択肢を失い|呆然《ぼうぜん》とする上条の全身へ、一〇〇を超える散弾が突き刺さった。上条の体がまるで陸へ上げられたエビのように跳ね回る。 「ぐ……げ、ぁ……っ! ハァ…はぁ……っ!」  上条はそれでも、間近に突き立った鋼鉄のレールを|掴《つか》んで立ち上がる。ただでさえ|美琴《みこと》の雷撃のダメージが残る足はがくがくに|震《ふる》え、口の中に血の味が充満していた。  と、かろうじて意識の残る上条は、見た。  はるか前方。まるで全身のバネを縮ませるように身を低く落とす一|方通行《アクセラレータ》の姿を。 「アッハァ! ほら、遅せェ、遅せェ、全然遅せェ! 狩人を楽しませるならキツネになれよ、食われるためのブタで止まってンじゃねェぞ三下ァ!!」  その時、|一方通行《アクセラレータ》と上条の問には三〇メートル近い距離があった。  にも|拘《かか》わらず、|一方通行《アクセラレータ》はわずか二歩でその距離をゼロまで縮めた。  |一方通行《アクセラレータ》の足元の|砂利《じやり》がロケットみたいに爆発する。まるで水面を跳ねる飛び石のような動きで一気に距離を詰めると、|一方通行《アクセラレータ》は|凄《すさ》まじい速度で|上条《かみじよう》の|懐《ふところ》へ飛び込んだ。  ぞわり、と上条の胃袋の辺りに|緊張《きんちよう》が沈む。  とっさに|拳《こぶし》を突き出そうとした上条だったが、それより前に|一方通行《アクセラレータ》の足が地面を踏んだ。  足元に敷かれていた鉄のレールが、バネに|弾《はじ》かれるように勢い良く起き上がる。|枕木《まくらぎ》に取り付けられたボルトが、シャツのボタンを|干切《ちぎ》るように弾け飛ぶ。  上条がギョッとする前に、跳ね上がる鋼鉄のレールがアッパーカットのように上条の|顎《あご》を勢い良く突き上げた。 「がっ、ご……ッ!」  体が真上に跳ね、上条の足が二〇センチも浮いた。それを満足げに眺める|一方通行《アクセラレータ》は、宙に浮きがら空きになった上条の胴に|狙《ねら》いを定めて|悪魔《あくま》の|爪《つめ》のように右手を開く。  あんな、|優《やさ》しげな|一撫《ひとな》でで鋼鉄のレールを砲弾のように飛ばした右手を。 「—————、ッ!!」  |毒蛇《どくへび》のように|襲《おそ》いかかるか|一方通行《アクセラレータ》の右手を見たか|瞬間《しゆんかん》、宙に浮いたままの上条はそれでもとっさに右手を突き出した。不幸中の幸いか、上条の右手は何とか|一方通行《アクセラレータ》の手を払い落とす。  たったそれだけの仕草に、  |一方通行《アクセラレータ》は、何か信じられないようなモノでも見るような目を上条へ向けて、  何かを振り払うように、|一方通行《アクセラレータ》は勢い良く大地を踏み|潰《つぶ》した。  |震脚《しんきやく》。  巻き上げられた凶器のような砂利が、宙に浮く上条の全身へ|叩《たた》き込まれた。呼吸の死んだ上条の体が、死体のように地面を転がる。ゴロゴロと、手足を投げ出したまま何メートルも転がった上条は、どん、と背中が何かにぶつかってようやく動きを止める事ができた。 「……、?」  それは、コンテナの壁だった。  操車場の外周をぐるりと取り囲んでいる、山積みにされたコンテナ。|一方通行《アクセラレータ》や|御坂《みさか》妹は操車場の真ん中にいたはずだが、どうも|攻撃《こうげき》を|避《さ》けて後ろへ下がり続けている内に何十メートルも後退していたらしい。  コンテナは五段、六段と|堆《うずたか》く積み上げられ、三階建ての建物と同じぐらいの高さを|誇《ほこ》っていた。  上条は一瞬、背中に当たるコンテナの壁をチラリと見たが、 「おら、|余所見《よそみ》たァ余裕だなオイ! ンなに死にたきゃギネスに載っちまうぐれェ愉快な|死体《オブジエ》に変えちまおうかァ!!」  狂笑。  上条が慌てて振り返ると、何メートルも離れた位置から|一方通行《アクセラレータ》がわずかに身を沈め、思い切り地面を|蹴《け》って飛び上がった所だった。ただの垂直飛びのはずなのに、その|華奪《きやしや》な体は一気に四メートルもの高さまで到達する。  全体重をかけた頭上からの飛び蹴りが、砲弾のように|上条《かみじよう》の頭を|狙《ねら》う。  上条がとっさに横合いへ転がって|避《さ》けた|瞬間《しゆんかん》、|一方通行《アクセラレータ》の飛び蹴りが今まで寄りかかっていたコンテナの金属壁に激突する。  ゴォン!! という教会の|鐘《かね》のような|轟音《こうおん》が|響《ひび》き渡り、 瞬聞、積み上げられたコンテナの山が崩れた。  ちょうど山積みにした積み木の山の「番下のブロックを引き抜くようなものだろう。  |一方通行《アクセラレータ》の飛び蹴りが一番下の段のコンテナを紙箱のように押し|潰《つぶ》した瞬間、支えられていた上の段のコンテナがぐらりと揺れていきなり崩れた。単に崩れるだけでなく、|隣《となり》の段のブロックまでも巻き込んで、まるでトランプで作ったピラミッドが崩れていくように、コンテナの山が|崩壊《ほうかい》していく。  上条は息を|呑《の》んで頭上を見上げた。  まるで巨大なサイコロのようなコンテナがいくつも空中に投げ出され、豪雨のように降り注ごうとしていた。 「!」  上条はとっさに起き上がる。どうにか頭上に迫るコンテナを避けようと横合いへ飛ぼうとし た所で、視界の端が何かを|捉《とら》えた。  |一方通行《アクセラレータ》が、全身のバネを縮めるように、わずかに身を低く沈めていた。  上条がギョッとした瞬間、コンテナから逃げようとする上条を|追撃《ついげき》するように、砲弾の速度で|一方通行《アクセラレータ》が上条の兀へと飛びかかってきた。  あらゆる|衝撃《しようげき》を『反射』する|一方通行《アクセラレータ》にとって、一つ一トンを超えるコンテナの雨などいちいち避ける必要もないのだろう。  だが、上条は違う。  頭上のコンテナを避けようとすれば|一方通行《アクセラレータ》の追撃を避けられず、  |一方通行《アクセラレータ》を右手で迎撃しようとすれば頭上のコンテナに押し潰される。 「……、っ!」  上条はとっさに足元の|砂利《じゃり》を蹴り上げ、眼前に迫る|一方通行《アクセラレータ》に向かって飛ばした。  当然、そんな事では|一方通行《アクセラレータ》は止まらない。 「ハッハァ! ンなモン|利《き》くと思ってンのかァ? せめてやるならこンぐれェにしろ……ってンだよォ!!」  |一方通行《アクセラレータ》の体にぶつかった大量の砂利は、その『向き』を操られ、倍加する速度で上条の元へと『反射』した。  |上条《かみじよう》はとっさに両腕を交差し、自分の顔と胸を保護する。  |瞬間《しゆんかん》、散弾銃のような勢いで|襲《おそ》いかかってきた大量の小石が上条の全身を|叩《たた》いた。まるで砲弾でも|撃《うち》ち込まれたように、その体が何メートルも後ろへ飛ばされる。  頭上のコンテナを|回避《かいひ》するように。  正面から襲いかかる|一方通行《アクセラレータ》から距離を取るように。 「あァ?」  |一方通行《アクセラレータ》が、わずかに感心したような声をあげた瞬間、大量のコンテナが地面へ激突した。大量の|砂利《じやり》が空中へと巻き上げられ、砂煙が上条の視界を奪う。そして、その砂煙を引き裂くように無数のコンテナが好き勝手に転がり、上条を押し|潰《つぶ》そうとした。まるで巨大なカップの中で踊るダイスのように予測のつかないコンテナは、意思持つ生き物のように暴れ回る。 (ちっくしょう……っ!)  上条は死にもの狂いで飛び|退《の》いて転がるコンテナから逃げる。  とりあえずコンテナの動きは止まったが、巻き上げられた砂煙が上条の視界を奪っていた。いや、これは砂煙ではない。どうやらコンテナの中身は小麦粉か何かだったらしい。|霧《きり》のように白い粉末の白煙が、うっすらと上条の視界を奪っていく。  三六〇度、ぐるりと上条を取り囲む自いカーテン。  それを引き裂いて、いつどこから|一方通行《アクセラレータ》が襲い掛かってくるかも分からない。まるで目隠しをされたまま|猛獣《もうじゆう》の|潜《ひそ》む|橿《おり》へ放り込まれたような、絶望的な|緊張《きんちよう》が上条を襲う。  だが、予想に反して白いカーテンの前方から声が聞こえてきた。  まるで、わざわざ自らの位置をアピールするかのように。 「ふン。どうやらコンテナの中身は小麦粉だったみてェだが。今日はイイ感じに無風状態だし、こりゃあひょっとすっと危険な状態かもしンねェなァ?」  ? と上条は|訝《いぶか》しげに相手の出方を窺《うかが》ったが、 「例えばさァ、鉱山とかで爆発事故が起きる話ってあンだろ。あれって別に爆薬の取り扱いを間違ったっつう訳じゃねェンだわ」ニヤニヤと、声は楽しそうに、「原因は、鉱山ン中で削った岩の、微細な粉末が空気中に充満してるからなンだと[#「微細な粉末が空気中に充満してるからなンだと」に傍点]。ちょうど[#「ちょうど」に傍点]、今みてェに[#「今みてェに」に傍点]」 上条はギクリとした。  |一方通行《アクセラレータ》が何をしようとしているのかを悟り、上条はとっさにボロボロの体を動かしてその場から逃げようとした。 「何でも空気中に粉末が漂ってて、そいつに火が|点《つ》くとさァ。酸素の燃焼速度がバカみてェに速くなるンだと。結果、そこら中の空間そのものが一個の巨大な爆弾になるらしいンだが」  上条はもう聞いていない。  ただ|脇目《わきめ》も振らずに、一刻も早くこの場から離れるために走り続ける。  |一方通行《アクセラレータ》に背を向け、この粉末が|覆《おお》い尽くす巨大な空間から逃げるように。  走り、走って、走り続けて、  その時、|一方通行《アクセラレータ》の声が|上条《かみじよう》の背中に突き刺さった。 「なァ、オマエ。|粉塵《ふんじん》爆発って言葉ぐれエ、聞いた事あるよなァ?」  直後、あらゆる音が吹き飛ばされた。  小麦粉の粉末が|撒《ま》き散らされた、半径三〇メートルもの空間そのものが、巨大な爆弾と化したのだ。まるで空気中に気化したガソリンに火が|点《つ》くように、辺り一面の空間が爆発して炎と熱風を撒き散らす。  その時、上条はギリギリで小麦粉のカーテンの中から脱出していた。  |衝撃波《しようげきは》が背中を|叩《たた》き、|砂利《じやり》の上へ体を叩きつけられたが、それでも爆炎に巻き込まれる事だけは|避《さ》けられた。  だが、粉塵爆発が普通の爆弾と違う所は、空気中の酸素を燃料にしている所だ。爆発は|一瞬《いつしゆん》 で辺り一面の酸素を奪い取り、気圧を急激に下げてしまう。  幸い、ここは密閉空間ではなく外だったので、真空状態になるほどではない。だが、急激な気圧の変化は上条の内側から内臓をギリギリと|搾《しば》り上げた。もっとも、これが真空状態なら上条の体は内側から|弾《はじ》け飛んでいただろう。 「が……ハァ…っ!」  上条は炎の海のせいで昼聞のように明るくなった操車場で、ボロボロの体を動かしてかろうじて起き上がる。後ろを、自分が逃げてきたコンテナ置き場を振り返る。  |一方通行《アクセラレータ》が歩いてくる。  自ら作り上げた|紅蓮《ぐれん》の|煉獄《れんごく》の中を、|一方通行《アクセラレータ》は平然と歩いてくる。 「まったく、あァそォだった。さっき身をもって経験したばっかじゃねェか、酸素奪われるとこっちも|辛《つら》いンだっつの。あァ死ぬかと思った。喜べ、オマエひょっとして世界初じゃねェのか。|一方通行《アクセラレータ》を死ぬかもしれねエトコまで追い詰めるだなンてさァ」  本当に世間話みたいに、声は歌った。 「くっくっ。こりゃ核を|撃《う》っても|大丈夫《だいじようぶ》ってキャッチコピーはアウトかなァ? ま、酸素ボンベでも持ってりゃ良いンだが。なァ、確かヘアスプレーサイズのボンベってあったよなァ。あれっていくらぐらいするか分っかンねェ?」  その炎の地獄の中、そんなに気楽でいられる事こそが、上条には恐ろしかった。 「……ッ!」  上条はとっさに身構えようとした。 だが、ダメージはもう脚まで浸透して、ガクガクに|震《ふる》えていた。 「————、で?身構えてどうすンの、オマエ?」  炎の中、|一方通行《アクセラレータ》は子供のように小首を|傾《かし》げた。 「死にもの狂いで努力しても一歩も近づけねエ、かと言って仮に近づいた所でオマエに何ができるってンだ?」|一方通行《アクセラレータ》は|業火《こうか》の中で涼しげに両手を広げ、「|俺《おれ》の体に触れたモノは例外なく『向き』を操られる。それって人の血の『流れ』すら例外じゃねェンだぜ? つまりオマエが不用意に俺の体に触れたら最期、オマエは全身の血管と内臓を根こそぎ爆破して果てるって意味なンだけどさア、そこントコ正しく理解してたのか?」 「……、」  |上条《かみじよう》の|震《ふる》える足が停止した。  例えば上条の右手が|一方通行《アクセラレータ》の『反射』を突き破る事ができるとして。  それで何ができる?  上条が|一方通行《アクセラレータ》に触れられるのは右手のみ。それはつまり、片手を封じた状態でボクシングをするようなものだ。しかも、仮に上条の右手が|一方通行《アクセラレータ》の顔面へ突き刺さったとしても、|拳《こぶし》を引き戻す前に、一度でも腕を|掴《つか》まれれば、それだけで—————。  だが、凍りつく上条に|一方通行《アクセラレータ》は親しげに笑った。 「ま、っつってもそンなに気にする事じゃねェンだぜ。実際、オマエは結構頑張ったと思うしな。この|一方通行《アクセラレータ》を前に、今こうして呼吸してる事そのものが奇跡なンだよ。それ以上を望むってのは|贅沢《ぜいたく》ってモンじゃねェの?」  この殺し合いの|最中《さなか》、涼しげに笑っていた。 「まったく。元のポテンシャルが低いのが幸いしたよなァ、そンな|弱《よ》わっちィンじゃ逆に『反射』が上手く働かねェ。ホント、オマエは俺の弱点を突いてたンだ。なまじ下手に強い|風紀委員《ジヤツジメント》やハイテク兵器を持ち出す|警備員《アンチスキル》だったら、おそらく最初の一撃を『反射』して終わりだからなァ」  炎の海の中で、ぱちぱちと|一方通行《アクセラレータ》は拍手した。  心の底から、相手を|労《ねぎら》うような声で、 「オマエは頑張ったよ。オマエは本当に頑張った。———だからイイ加減に楽になれ」  炎の中で、|一方通行《アクセラレータ》の体が低く沈む。  |轟《ごう》! と炎の海すら|蹴散《けち》らして、白い少年は砲弾のように上条へ向かって駆け出した。両者の距離は何十メートルとあったのに、そんなものは、ものの二、三歩でゼロまで縮められた。まるで水面を跳ねる飛び石のような動きで、|一方通行《アクセラレータ》は上条の|懐《ふところ》へと|潜《もぐ》り込む、 「—————ッ!」  上条の胃袋から|喉《のど》の先まで、ぞわりとした|緊張《きんちよう》が一気に|這《は》い上がる。  右の苦手、左の毒手。  触れただけであらゆる『向き』を変換するその手は、同時にあらゆる生物に死を与える暗黒の手だ。例えば|皮膚《ひふ》に触れただけで、毛細血管から血の流れを、体表面から生体電気の流れを、片っ端から『逆流』させれば人間の心臓はそれだけで内側から|弾《はじ》け飛ぶのだから。  |一方通行《アクセラレータ》の両手が合わせられる。  まるで|手錠《てじよう》に|繋《つな》げられたように手首を合わせた両の|双掌《そうしよう》が、|上条《かみじよう》の顔面目がけて勢い良く突き出される。  上条はとっさに後ろへ下がろうとしたが、|震《ふる》える脚がもつれて上手く動かない。  |魂《たましい》を握り|潰《つぶ》す両の手が、上条の眼前へと迫る。 「く、そ——————ぁ、ああああああああああああああ!」  上条は反射的に目を|瞑《つむ》り、玉砕覚悟で右手を振り上げた。自ら視界を封じ、どこを|狙《ねら》って|拳《こぶし》を突き出しているかも分からない上条の右手は、 ぐしゃり、と。何か鈍い感触と共に、|一方通行《アクセラレータ》の顔面を|殴《なぐ》り飛ばしていた。 「え?」 むしろ、最初に|驚《おどろ》いたのは殴られた|一方通行《アクセラレータ》より殴った上条の方だっただろう。まさか、当たるとは思っていなかった。こんなボロボロの|拳《こぶし》など、当たった所で何のダメージも与えられないと思っていた。  だが、|一方通行《アクセラレータ》は吹っ飛んで|砂利《じやり》の上へ倒れ込み、もぞもぞと|蚕《うごめ》いていた。 「あ、は? い、たい。はは、何だよそりゃあ? |面白《おもしれ》ェ、ははは、ちくしょう。イイぜ、最っ高にイイねェ。愉快に素敵にキマっちまったぞ、オマエはァ!」  まるで|艀化《ふか》寸前の|悪魔《あくま》のように地面にうずくまり、白い少年は狂熱に笑う。  しかし、|上条《かみじよう》はそんな言葉など聞いていなかった。  思えば、最初から何か変だった。  今の上条が|一方通行《アクセラレータ》とここまで戦っている時点で、どうして気づかなかったのか。  上条と|一方通行《アクセラレータ》の間には圧倒的なハンデがある。|一方通行《アクセラレータ》は触れただけで人を殺す事ができる。対して上条は右手以外の部分で|一方通行《アクセラレータ》に触れただけで即死してしまう。  その上、上条は|美琴《みこと》に受けた|雷撃《らいげき》のダメージが抜けず、ろくに足を動かせる状態でもない。  なのに。それほどのハンデを背負っているのに。 (……、まさか)  |一方通行《アクセラレータ》は上条の|懐《ふところ》へと飛び込んでくる。  その、触れただけで人を殺す右手が、|真《ま》っ|直《す》ぐ上条の顔面を|狙《ねら》う。 (まさか、こいつ)  上条は首を振っただけでこれを|避《さ》けた。  特に軍隊みたいな訓練をしている訳でもないのに、簡単に避ける事ができた。 (もしかして—————)  上条は、右の拳を握る。  攻撃を外した|一方通行《アクセラレータ》へ、カウンターを決めるようにさらに懐へと|潜《もぐ》り込んで、 (もしかして[#「もしかして」に傍点]—————メチャクチャ弱い[#「メチヤクチャ弱い」に傍点]?) 「ごぶぁ?」  上条の拳が、|一方通行《アクセラレータ》の顔面へ突き刺さった。複雑な軌道を描くナイフの動きを連想させる左右の手は、けれど上条の肌には|掠《かす》りもしない。|毒蛇《どくへび》のような|一方通行《アクセラレータ》の二本の手をかいくぐるように、さらに二度、三度と上条の拳が|一方通行《アクセラレータ》の顔面へ|襲《おそ》いかかる。 「ちっくしょ、何だ? オマエ何だよその変な動きは! ウナギじゃねェンだからウネウネウネウネ逃げてンじゃねェ!」  せめて顔面に突き刺さる拳を逆に捕らえてやろうとする|一方通行《アクセラレータ》だが、それこそ穴を出入りする蛇のように|滑《なめ》らかな上条の手はそれを許さない。 「はっ、負けた事がない、ね」上条はステップを踏みながら、「だからこそ[#「だからこそ」に傍点]、テメェは弱いんだよ! あらゆる敵を一撃で倒し、どんな攻撃も簡単に反射する。そんなヤツが、ケンカの方法なんか知ってるはずがねえってな!」  そう、結局両者の差はそこに集約していた。  |一方通行《アクセラレータ》の戦いは『勝負』ではなく、一方的な『|虐殺《ぎやくさつ》』でしかない。それも身についた『能力』があまりにも強すぎたため、『戦い方』を覚える必要すらなかった。  実際、|一方通行《アクセラレータ》の構えはムチャクチャだった。|拳《こぶし》も握らず、突き指を|狙《ねら》っていますと言わんばかりに五本の指は開いたままで、足運びも重心を全く考えていない。  だが、そんな事を不安に思う必要もないぐらい、|一方通行《アクセラレータ》の能力は強すぎた。  あらゆる敵を|一撃《いちげき》で必殺できるのなら、上手く敵を倒す技術を|磨《みが》く必要はない。  あらゆる攻撃を反射できるのなら、相手の攻撃を見切り|避《さ》け防ぐ努力を積む必要もない。  技術や努力とは、言ってしまえば弱い人間が力を補うためのものなのだから。  だが、その『強さ』は『|能力《チカラ》』の強さであって、『|一方通行《アクセラレータ》』本人の強さではない。  仮に、その|一発芸《チカラ》を封じる右手があったら?  相手は、絶対に何をしても倒せない『無敵』ではない。  それが、単なる倒しにくいだけの『最強』だというのなら—————。 『無敵』と『最強』。そのわずかな|隙間《すきま》にこそ、勝機はある。 「チッ、————|吼《ほ》えてンじゃねェぞ|三下《さんした》がァ!」  |一方通行《アクセラレータ》の足が、たん、と軽く地を踏む。  バネ仕掛けのように|一方通行《アクセラレータ》の足元に寝かされていた鋼鉄のレールが起き上がる。  後はこれを|殴《なぐ》り飛ばせば、鋼鉄の砲弾は|上条《かみじよう》の体を貫くはずだ。  だが、上条はそれを許さない。  先の読める攻撃を中断するため、上条の右拳が|一方通行《アクセラレータ》の顔面を貫く。地面に|叩《たた》きつけられ、勢い良く転がる|一方通行《アクセラレータ》は自分の体が巻き上げる|砂利《じやり》の『向き』を操り、大量の散弾を上条の上半身目がけて勢い良く|撃《う》ち放つ。  だが、当たらない。  そんな先の読める攻撃は、地を|這《は》うように低く身を|屈《かが》めただけで何なく避ける事ができる。  上条は、特別ケンカが強い訳ではない。  不良相手のケンカだって、勝てるのは一対一まで、一対二なら危ういし、一対三になれば迷わず逃げる。その程度の腕しかない。  けれど[#「けれど」に傍点]、それでも一方通行は上条に届かない[#「それでも一方通行は上条に届かない」に傍点]。  上条が放っている拳も体重を乗せているものではない。ボクシングで言うなら|軽打《ジヤブ》、|殴《なぐ》る時よりも引き戻す時の方に力を使うような、|牽制《けんせい》のための拳でしかない。  だけど[#「だけど」に傍点]、それでも一方通行には重く突き刺さる[#「それでも一方通行には重く突き刺さる」に傍点]。  たった一度も負けた事のない|一方通行《アクセラレータ》は、逆に言えば一度も勝負をした事がないのだ。その能力が最強だからこそ、通常の運動能力を使う機会がない。いくら不良のケンカも圧勝できない|上条《かみじよう》にしても、生まれてこの方一度も争った事のない、深窓のお|坊《ぼつ》ちゃまを相手にすればボコボコにする事ができる。 「……っ! く、は、|面白《おもしれ》ェ、何なンだよその右手は!」  小刻みな右の|拳《こぶし》を何度も顔面に浴びた|一方通行《アクセラレータ》は、がむしゃらに手を伸ばしながら叫ぶ。  生まれてこの方、たった一度も負けた事のない最強と、  たとえどれだけ負けても、決して|諦《あきら》めなかった最弱。  どちらが強いかと聞かれれば、ここで軍配が上がったのは上条だった。一〇〇回負ければ一〇〇回起き上がり、一〇〇〇回負ければ一〇〇〇回|這《は》い上がる———その敗北すら力に変えた強さが、右の拳を作り|一方通行《アクセラレータ》の顔面へと突き刺さる。  今まであらゆる|攻撃《こうげき》を反射してきた|一方通行《アクセラレータ》には、目の前の攻撃が『危ない』ものだと分かっていても、それを『|避《さ》けよう』という動きに結びつかない。突き刺さる拳も気にせず、逃げる上条をただがむしゃらに両手を振って追い駆けるその姿は、大人に軽くあしらわれている小さな子供にしか見えない。  そして、その事実が|一方通行《アクセラレータ》には一番良く分かるからこそ、耐えられない。  学園都市で最強というプライドが、現実との|狭間《はざま》に揺れてギシギシと音を立てる。  ズキズキと。鼻を|潰《つぶ》すような未知の痛みが|一方通行《アクセラレータ》の集中をさらに|削《そ》ぎ落とす。 「クソ。クソォ! クソォオオオオオオオオ!!」  |吼《ほ》える|一方通行《アクセラレータ》の足元が爆発した。まるで弾丸のようにその体が上条へと跳ぶ。足の裏で地面を|蹴《け》る、その|衝撃《しようげき》。本来なら拡散していく運動エネルギーを最適化させる事で、移動速度を二倍にも三倍にも引き伸ばしたのだろう。  だが[#「だが」に傍点]、 「何だ、ちくしょう。何だってオマエにはただの一発も当たンねェンだよ、ちくしょう!」  |肉食獣《にくしよくじゆう》のような速度をもってしても、上条には届かない。  いかに速度を得た所で、|狙《ねら》いが先読みできれば簡単に避ける事ができる。鋭いナイフが人を殺す凶器であっても、それを握っているのが幼稚園児では|脅威《きようい》にならないのと同じ事だ。  もう勝負は決した豊言って良い。上条が小刻みに与えたダメージは、今まさに蓄積してうたれ弱い学園都市最強の能力者の足を殺しつつある。  かくん、と|一方通行《アクセラレータ》のヒザから力が抜けた|瞬間《しゆんかん》、  ゴッ!! と。上条の、それまでにない『本気』の拳が顔面へ突き刺さった。  例えるならゴルフクラブで思いっきりボールを打つような一撃。腰の回転を使い重心を載せた殺しの一撃は、|一方通行《アクセラレータ》の体を突き倒し、ごろごろと地面の上へ転がした。 「はっ……ハァ……!?」  |一方通行《アクセラレータ》は上体を起こし、前を見る。そこにゆらりと近づく上条|当麻《とうま》の姿を確認して、手だけを使ってずるずると後ろへ下がる。  痛い。  |全《すべ》ての|攻撃《こうげき》を自動的に『反射』してきた|一方通行《アクセラレータ》にとって、それは未知の感覚だった。彼にとって痛点とは|皮膚《ひふ》から快楽を脳へ伝える|器官《センサー》にすぎない。『痛み』に対する耐性をまるで持 たない幼い痛覚神経が、過剰な信号を受けて焼き切れそうになっている。 「……|妹達《シスターズ》だってさ、精一杯生きてきたんだぞ」  |上条《かみじよう》は、右手を握り締める。 「全力を振り絞って必死に生きて、精一杯努力してきた人間が……、」上条は、奥歯を|噛《か》み締めて、「……何だって、テメェみてえな人間の食い物にされなくっちゃなんねえんだよ!」  ひっ、と|一方通行《アクセラレータ》の動きがビクリと止まる。  だが、上条は止まらない。  |嫌《いや》だ、と|一方通行《アクセラレータ》は首を横に振った。|一方通行《アクセラレータ》には『負ける』という事がどんなものか分からない。生まれてこの方、一度も負けた事のない|一方通行《アクセラレータ》には、『負ける』という事に対する耐性が一切ない。当たり前だ、今の今まで『負けるかもしれない』と思う事すらなかった人間なのだから。  しかし、それでも上条は止まらない。  その前髪が夜風になぶられ、まるで墓場に咲く名もなき花のように揺れていた。 (……、風?) と、悪鬼のような形相の上条に追い詰められていた|一方通行《アクセラレータ》は、不意に気づいた。  風。 「く、」  |一方通行《アクセラレータ》は笑う。上条は思わず立ち止まった。何か|得体《えたい》の知れない危機感を感じ取ったのか、 |一方通行《アクセラレータ》はそう思ったが気にしない。気づいた所でもう遅い。 「くか、」  |一方通行《アクセラレータ》の力は、触れたモノの『向き』を変えるというもの。運動量、熱量、電力量。それがどんな力であるかは問わず、ただ『向き』があるものならば全ての力を自在に操る事ができる、ただそれだけの力。 「くかき、」  ならば、同様に。  この手が[#「この手が」に傍点]、大気に流れる風の『向き』を掴み取れば[#「大気に流れる風の『向き』を掴み取れば」に傍点]。  世界中にくまなく流れる[#「世界中にくまなく流れる」に傍点]、巨大な風の動きその全てを手中に収める事が可能[#「巨大な風の動きその全てを手中に収める事が可能」に傍点]——ッ! 「くかきけこかかきくけききこかかきくここくけけけこきくかくけけこかくけきかこけききくくくききかきくこくくけくかきくこけくけくきくきこきかかか—————ッ!!」  |一方通行《アクセラレータ》は見えない月を|掴《つか》むように、頭上へ手を伸ばす。  |轟《ごう》!! と音を立てて風の流れが渦を巻く。  目の前の少年の顔色が変わった。今さら気づいた所でもう遅い。すでに|一方通行《アクセラレータ》の頭上には、まるで地球に穴が空いたような巨大な大気の渦が、球形を取って砲弾のように待機している。バチバチと辺りの|砂利《じやり》が舞い上がり、直径数十メートルに及ぶ巨大な|破壊《はかい》の渦が歓喜の|産声《うぶこえ》をあげる。  |一方通行《アクセラレータ》は笑いながら、殺せと叫んだ。  世界の大気をまとめあげた破壊の鉄球は風を切り、  風速一二〇メートル———自動車すら簡単に舞い上げるほどの烈風の|槍《やり》と化して、見えざる巨人の手はいとも|容易《たやす》く少年の体を吹き飛ばした。      7  風が死に、音が死に、大気が死んだ。  |一方通行《アクセラレータ》は己が作り上げた|惨状《さんじよう》を見渡す。操車場の地面を|覆《おお》っていた砂利は風の|塊《かたまり》に舞い上げられ、所々は土の地面が見え隠れしていた。二〇メートルも吹き飛ばされた少年は|壊《こわ》れた風力発電のプロペラの支柱に背中から激突して、ずるずると地面へ崩れ落ちている。どうせなら砂利の上を転がった方が愉快な展開になっただろうが、どの道|辿《たど》る道は同じだろう。風速一二〇メートルで何かに激突するのは、交通事故で自動車にノーブレーキで|撥《は》ね飛ばされるのと大差ない。  実際、崩れ落ちた上条はピクリとも動かず、支柱の下でぐったりと手足を投げ出していた。生きているかどうかも疑わしい状態だ。 「……、ふん」  とっさに考え付いた事とはいえ、想像以上の威力だった。  だが、これはまだ未完成だろう。自動的な『反射』と違い、『向き』を自分の意思で変更させる場合は当然、『元の向き』と『変更する向き』を|考慮《こうりよ》しなければならない。  風——大気の流れとは、カオス理論が|絡《から》む複雑な計算を必要とする。『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』でも使わない限り完全な予測などできない。  人間一人の頭で、世界中の大気の流れを演算できたとは思えない。  今のはせいぜい、学園都市の中の風をそこそこ操った程度だろう。  だが、それにしてもこの威力。もはや|絶対能力《レベル6》など必要ない。より|完壁《かんぺき》に、より正確に風の流れを計算できれば、それこそ世界を滅ぼす事さえ可能な力を手に入れられる。  世界は、この手の中にあった。  その感動が、|一方通行《アクセラレータ》の全身を駆け巡った。自分が敗北の縁まで追い詰められたからこそ、その勝利の感覚は胸が詰まるほど生々しく伝わってきた。  改めて確信する。  |一方通行《アクセラレータ》を止められるものなど、この世のどこにも存在しない。  核爆弾だろうが正体不明の右手だろうが、そんなものは何の障害にもならない。 「く、————」|一方通行《アクセラレータ》は、ついに笑い出した。「何だ何だよ何ですかァそのザマは! 結局デカい口|叩《たた》くだけで大した事ねェなァ! おら、もう一発かましてやるからカッコ良く敗者復活でもしてみろっつの!」  |一方通行《アクセラレータ》は夜空を抱くように両手を広げて頭上へ|吼《ほ》える。 「空気を圧縮、圧縮、圧縮ねェ。はン、そうか。イイぜェ、愉快な事思いついた。おら、立てよ最弱。オマエにゃまだまだ付き合ってもらわなきゃ割に合わねェンだっつの!」  |上条《かみじよう》は答えない。  無数の鋼鉄レールが|砂利《じやり》の上へ十字架のように突き立つ景色の中、暴風と狂笑だけが墓地に流れる死風のように吹き抜けていた。  |美琴《みこと》の足元で黒猫が、みーと不安そうに鳴く。  その|瞬間《しゆんかん》、|御坂《みさか》美琴は操車場の中へ踏み込んだ。  美琴は最初から上条の戦いを見ていた。何度も何度も一|方通行《アクセラレータ》との間に割っていこうと考えた。だが、それは上条の『計画』の失敗を意味している。結局、美琴は今の今まで傷つきポロポロになっていく上条の姿を|黙《だま》って見ている事しかできなかった。  けれど、もう限界だ。  これ以上あの少年を一人で戦わせては、本当に死なせてしまう事になる。 「止まりなさい、|一方通行《アクセラレータ》!」  美琴は何十メートルも離れた場所から、その手を突き出した。握り締めた手の親指にはすでにコインが乗せられている。美琴の全身から紫電が|溢《あふ》れる。後は親指を軽く|弾《はじ》くだけで、御坂美琴の異名となった|超電磁砲《レールガン》は音速の三倍もの速度で|撃《う》ち出される事になる。  だが、|一方通行《アクセラレータ》はそんな|超電磁砲《レールガン》の事など見向きもしない。  やれるものならやってみうと言わんばかりに、さらに暴風が力を増す。  攻撃すれば攻撃した分だけダメージは跳ね返る。  強力な一撃を浴びせれば浴びせるだけ、その|衝撃《しようげき》は舞い戻る。 「……、っ」  美琴の指が|震《ふる》えた。  |超電磁砲《レールガン》など返されれば、美琴の体は音速の三倍で|粉微塵《こなみじん》にされる。  |超電磁砲《レールガン》と|一方通行《アクセラレータ》が戦えば、一八五手で御坂美琴は|惨殺《ざんさつ》される。冷たい機械が打ち出した決して変える事のできない演算結果が、|美琴《みこと》の心臓へ氷の破片のように突き刺さる。  それでも、美琴は顔を上げる。  敵が勝てる相手だから、|誰《だれ》かを守りたいのではない。  誰かを守りたいから、勝てない敵とも戦うのだから。 「……、めろ。みさか」  と、その時、美琴は自分の名を呼ぶ声に気づいた。  それはとても弱々しい、けれど美琴の良く知っている少年の声。 「————やめろ、|御坂《みさか》!」  |上条当麻《かみじようとうま》の悲痛な叫びに、美琴の手がピタリと止まった。  上条の計画では、『|無能力者《イマジンプレイカー》が|超能力者《アクセラレータ》に勝たなければ』研究者を|騙《だま》す事はできない。美琴が手を出してしまった時点で、その計画は必ず失敗してしまう。  美琴が手を出さなければ暴風の|塊《かたまり》が上条の体を押し|潰《つぶ》し、  美琴が手を出せば、上条は一万もの|妹達《シスターズ》を見殺しにする事になる。 「……、」  それでも、美琴は|黙《だま》って見ている事などできなかった。  別に|妹達《シスターズ》を見殺しにしようとも思っていなかった。  美琴には、もう つの手段がある。美琴がわざと|一方通行《アクセラレータ》に負ける事で、研究者|達《たち》を騙して『実験』を止めるという方法が。  美琴だって、死ぬのは|嫌《いや》だ。  だけど、結局。どれだけあがいた所で、最初から選べる選択肢などなかったのだ。 「……、ごめん」  だから、最後に美琴は上条に謝った。  美琴が何をどう選んだ所で、もう上条は絶対に救われない。暴風の渦に押し潰されるのは論外だし、|妹達《シスターズ》を見殺しにしても、それを止めるために美琴が一人殺されても、結局上条はその事実に耐えられない。  上条当麻は、|誰《だれ》一人欠ける事なく、何一つ失う事なく、みんなで笑ってみんなで帰る事を願っていた.その夢は、今ここで|木《こ》っ|端微塵《ぱみじん》に打ち砕かれる事になるのだから。 「だから、ごめん————」  勝手かもしれないけどさ、と美琴は歌うように謝った。 「————それでも私は、きっとアンタに生きて欲しいんだと思う」  やめろ、と上条は叫んだ。  もうボロボロになって、立ち上がる事すらできないのに、それでも必死に美琴を止めようと、届くはずのない手を伸ばしながら。  美琴は、小さく笑った。  この少年は、気づいていない。少年がそう言ってくれるからこそ、|美琴《みこと》は死の恐怖を振り払って戦う事ができるのだという事に。 「———————————————————————————————————————」  美琴は、|決して勝てない敵《アクセラレータ》へと右手を突き出した。  後は磁力線レールを作ってコインを|弾《はじ》けば、もう後戻りはできない。あらゆる|攻撃《こうげき》を『反射』させる|一方通行《アクセラレータ》には何のダメージを与える事もできないが、それでも目の前に迫った死を|回避《かいひ》する事ぐらいはできるはずだ。  どうしてこんな事になっちゃったのかな、と美琴はぼんやりと考えた。  何でもっと違う、ずっと異なる、|誰《だれ》もが笑って誰もが望む、最高に幸福な終わりはないのか。誰一人欠ける事もなく、何一つ失うものもなく、みんなで笑ってみんなで帰るような、そんな結末はないのか。  ぼんやりと宙に浮かぶ美琴の思いを|嘲笑《あざわら》うように、|一方通行《アクセラレータ》は両手を広げて夜空を見上げる。|瞬間《しゆんかん》、街中を流れる『風』が一点へ集中した。|一方通行《アクセラレータ》の頭上、一〇〇メートルの位置。そ こへ暴風が集められた瞬間、何か溶接のような|眩《まばゆ》い白光が生まれる。  |高電離気体《プラズマ》。  空気は圧縮される事で熱を持つ。ディーゼルエンジンなどはこれを利用した内燃機関だ。あまりの圧縮率で|凝縮《ぎようしゅく》された街中の空気は、|摂氏《せつし》一万度を超える高熱の|塊《かたまり》と化し、周囲の空気中の『原子』を『陽イオン』と『電子』へ強引に分解し、|高電離気体《プラズマ》へと|変貌《へんぼう》させてしまう。  一点のみの光点は、周囲の空気を|呑《の》み込み一瞬で直径二〇メートルに|膨《ふく》れ上がる。  周囲の|闇《やみ》の|全《すべ》てが、純白の光によって絶滅した。  摂氏一万度もの高熱の余波が、美琴の|皮膚《ひふ》に|火傷《やけど》のようなジリジリした痛みを植え付ける。 「———————、ッ!」  美琴の背骨が瞬間冷凍したように寒気を訴えた。  あれはもう人類に防ぐ事のできる一撃ではない。核シェルターを丸ごと地下から掘り返すような高熱の塊など、生身の体で対抗しようと考える方がおかしい。  |御坂《みさか》美琴は『電撃使い』という|分類《カテゴリ》なら間違いなく学園都市最強の存在だ。  |高電離気体《マプラズ》が『原子』を『陽イオン』と『電子』に分離されたものであるなら、その『電子』を再び『陽イオン』に組み込んで『原子』に戻す事もできるかもしれない。  けれど[#「けれど」に傍点]、それが何になるのか[#「それが何になるのか」に傍点]? たとえ|高電離気体《マプラズ》を元に戻した所で、再び|一方通行《アクセラレータ》が『風』を集めれば|高電離気体《マプラズ》は 再形成されてしまう。|一方通行《アクセラレータ》の攻撃を封じるには電撃ではなく、彼と同じく風を操る術がなければ話にならない。だが当然、美琴には『電撃』を操る技はあっても『風』を御する術はない。この状況で、全く役に立たない己の力に美琴は|歯噛《はが》みして ようは、風さえ操れれば|一方通行《アクセラレータ》を止められるのか、と簡単な事に気がついた。 「あ、」  |美琴《みこと》は、思わず|馬鹿《ばか》みたいにポカンと口を開けた。  からからと。風力発電のプロペラが|髑髏《どくろ》の笑いのような音を立てて回転している。  あの|高電離気体《ブラズマ》は、|一方通行《アクセラレータ》によって街中から集められた風が|凝縮《ぎようしゆく》されて作り出されたものだ。世界中の風を集めたにしては規模が小さいから、おそらく能力には限界があるに違いない。例えば単純な『反射』と違い、自分の意思で行う『制御』は、風の『元の向き』と『操る向き』を計算しなければならないとか。  ならば、|一方通行《アクセラレータ》の計算を|邪魔《じやま》するように街中の風を乱してしまえば良い。  学園都市には、街中に風力発電のプロペラがある。その数は恐らく一〇万を超えるのではないだろうか?  そして、風力発電のプロペラは特定の電磁波を浴びせる事で回す事ができる。  一つ一つは小さな風しか生まないプロペラでも、一〇万を超える数が風を|攪拌《かくはん》するとなれば話は異なる。結果として、|一方通行《アクセラレータ》は風の制御を手放す事になるかもしれない。  だが、|超能力者《レペル5》の美琴がプロペラを操っては意味がない。  この戦いに美琴が直接手を出しては、『実験』を止める事はできない。  あくまで|御坂美琴《みさかみこと》の能力はこの勝負に干渉しない、という条件を守るなら。 これは世界でただ一人、御坂妹にしかできない仕事だ。  御坂妹と美琴では力のレベルが違いすぎる。美琴の劣化能力である、御坂妹の『|欠陥電気《レデイオノイズ》』 はせいぜい|異能力《レペル2》といった程度のものでしかない。動かせるプロペラの数にしたって、たかが知れているだろう。  だが、街中には一万人もの|妹達《シスターズ》がいる。  そして自分一人の脳で風の流れを計算している|一方通行《アクセラレータ》とは異なり、|妹達《シスターズ》は一万もの頭脳を脳波でリンクして、並列演算で風の流れを予言する。ちょうど、『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』が超高度な並列演算機械だったように。  美琴は|砂利《じやり》の上に倒れたままの御坂妹に駆け寄った。  全身がボロボロの御坂妹は、自分の脚で立ち上がるだけの体力すら残されていないらしい。そんな状態の彼女にさらに無理を聞かせるのは気が引けた。  だが、もう|頼《たの》むしかない。 「お願い、起きて。無理を言ってるのは分かってる、自分がどれだけひどい事を言ってるのかも分かってる。だけど、一度で良いから起きて!」  だが、もう|頼《たよ》るしかない。 「アンタにやって欲しい事があるの。ううん、アンタにしかできない事があるの!」  |誰《だれ》一人欠ける事なく、何一つ失うものなく。  みんなで笑って、みんなで帰るためには。 「たった一つで良い、私の願いを聞いて! 私にはきっと、みんなを守れない。どれだけもがいてどれだけあがいても、絶対に守れない! だから、お願いだから!」  誰もが笑って、誰もが望む。  そんな、最高に幸せな結末に|辿《たど》り着くためには。 「お願いだから、アンタの力でアイツの夢を守ってあげて!」  御坂妹は、断続的に途切れる意識の中で、確かにお|姉様《オリジナル》の叫びを聞いた。  その言葉は、確かにムチャクチャだと思う。今にも心臓が止まりそうな御坂妹の体にムチを打って能力を使わせるぐらいなら、自分の何倍も優秀な能力者であるお|姉様《オリジナル》本人が力を使えば良いのに、と事情を良く理解していない御坂妹はぼんやりと考えていた。  だけど、文句は言えなかった。  お|姉様《オリジナル》の言葉は|理不尽《りふじん》なぐらい暴力的だったけど、  |何故《なぜ》か、御坂妹には泣きそうな子供が「たすけて」と|呟《つぶや》いているように見えた。 「……、」  |御坂《みさか》妹は、自分の命に何の価値も|見出《みいだ》さない。  ボタン一つで作り出せる肉の体に、プログラム通りに注入される無の心。単価一八万円の命など|壊《こわ》れた所でいくらでも替えが|利《き》くと本気で信じている。  けれど、|嫌《いや》だな、と御坂妹は思ってしまった。  確かに自分の命には何の価値もないけど、そんなちっぽけなものが失われたぐらいで|哀《かな》しむ人が出てくるなんて事を知ってしまったら、もう死ぬ事などできなかった。  そして、たとえこのちっぽけな存在でも、今にも泣きそうな少女を助ける事ができるのならば、それはとても素晴らしい事だと、そう思う事ができたから。  やるべき事があった。  守るべきものを見つけた。 『アンタにやって欲しい事があるの。ううん、アンタにしかできない事があるの!』 (その言葉の意味は分かりかねますが————)  御坂妹は、ゆっくりと|四肢《しし》に力を込める。 (———|何故《なぜ》だか、その言葉はとても|響《ひび》きました、とミサカは率直な感想を述べます)  きっと、そう言ってくれる|誰《だれ》かがいるから。  御坂妹は、まだ立ち上がる事ができた。      8  |轟《ごう》! という風のうなりと共に、いきなり頭上に浮かぶ球状の|高電離気体《プラズマ》の形が崩れた。 「な……?」  |一方通行《アクセラレータ》は思わず頭上を見上げた。あの|高電離気体《プラズマ》は街中を流れる風を一点に|凝縮《ぎようしゆく》させる事で作り出されたものだ。その風の流れが、|一瞬《いつしゆん》だが確実に揺らいだ。そのせいで空気の圧縮率に誤差が生じて|高電離気体《プラズマ》が揺らいだのだ。  風の計算を誤ったか、と|一方通行《アクセラレータ》は新たに計算式を組み直す。単純な『反射』と異なり、『操作』には『変更前の向き』と『変更後の向き』の両方を計算しなければならないので|面倒臭《めんどうくさ》い。  とはいえ、|一方通行《アクセラレータ》はわずか一〇秒足らずで|膨大《ぼうだい》な計算式を完全に修正する。これくらい、脳を開発された彼には問題にもならない。教育方法に能力開発を取り入れる学園都市にとって、学園都市最強の能力者とはつまり学園都市最高の優等生の事なのだから。  だが、  |完壁《かんぺき》な頭脳に組み上げられたはずの計算式から逃れるように、街中の風の流れがいきなり動きを変えた。ただの偶然ではなく、まるで風そのものが意思を持って計算式の|隙間《すきま》をかいくぐるように。  頭上で圧縮されていた空気の|塊《かたまり》が拡散し、|高電離気体《プラズマ》が空気に溶けるように消えていく。 (何だァ? 何が起こってンだ! |俺《おれ》の計算式に狂いはねエ、大体今のウナギみてエな不規則な動きはどう考えても自然風じゃねェぞ!)  まさか間が悪く、本物の風使いが街のどこかで力でも使っているのか。いや、不規則な風の流れは街の隅々にまで及んでいる。「|一方通行《アクセラレータ》の能力と計算式の上を行く処理能力を持つ風使いがいるとすれば、そいつは間違いなく|超能力者《レペル5》に認定できる。だが、|一方通行《アクセラレータ》の知る七人の中に、そんな能力者は存在しない。  一体何が……、と|焦《あせ》る|一方通行《アクセラレータ》は、そこでカラカラという乾いた音を聞いた。  風力発電のプロペラが回る音を。 (待、て。聞いた事があンぞ。確か発電機のモーターってなァ、マイクロ波を浴びせっと回転するって話が……ッ!)  |一方通行《アクセラレータ》は自分が打ちのめしたはずの|妹達《シスターズ》の方を振り返る。  だが、そこには死にかけの少女などいなかった。  そこにいるのは|一方通行《アクセラレータ》の敵だった。  今にも折れそうな足で|懸命《けんめい》に立ち上がり、全身に走る激痛に泣き言の一つも言わないで、無言で|一方通行《アクセラレータ》を|睨《にら》みつけているような、そんな敵がそこにいた。 (あの、ヤロウ……っ!)  |一方通行《アクセラレータ》の赤い|瞳《ひとみ》が殺意に|紅《あか》く色を変える。  たとえ|高電離気体《プラズマ》や暴風の制御を乗っ取られたとしても、|妹達《シスターズ》など|一方通行《アクセラレータ》の敵ではない。その完全なる防御を破る事ができるのは、世界でただ一つのあの右手だけなのだから。  殺す、と。  |一方通行《アクセラレータ》は、顔面を引き裂くような笑みを浮かべて|妹達《シスターズ》の下へと一歩踏み込んで、  両者の間に、|御坂美琴《みさかみこと》が割り込んだ。 「……、させると思う?」  吹き荒れる暴風の中、美琴の声はかき消されてしまうほどに小さかった。けれど、その静かな声は、|何故《なぜ》か|一方通行《アクセラレータ》の鼓膜を突き抜けた。 「ハッ、図に乗ってンじゃねェぞ格下が。オマエじゃ|俺《おれ》に届きゃしねェよ、足止めすらできやしねェ。視力検査ってなァ、二・〇までしか測れねェだろ? それと|一緒《いつしよ》さ、学園都市にゃ最高位のレベルが5までしかねェから、仕方なく俺はここに甘ンじてるだけなンだっつの」  美琴は何も答えない。きっと、美琴自身がその事を一番良く理解している。そして、理解していても逃げたくないからこそ、美琴はここに立っている。  |一方通行《アクセラレータ》は、そんな美琴を|邪魔《じやま》だと思い、まずは彼女から殺してしまおうと考え がさり、と。|一方通行《アクセラレータ》の背後で、何か物音が聞こえた。 「……、」  |一方通行《アクセラレータ》は、恐る恐る振り返る。  そこに、信じられない光景が広がっていた。風速一二〇メートルもの暴風に吹き飛ばされて、風力発電の支柱に激突したはずの少年が、ゆっくりと立ち上がる所だった。  少年の体には無数の傷があり、少しでも筋肉に力を込めるだけであちこちから血が噴き出しているようだった。その体にはもうまともな力が入らず、両の脚はがくがくと|震《ふる》え、両の手は柳の枝のようにぶらりと垂れ下がっていた。  それでも、少年は倒れない。  絶対に、倒れない。 「…………………………………………………………………………………………………ッ!」  |一方通行《アクセラレータ》の|喉《のど》が、砂漠のように|干上《ひあ》がった。  常識的に考えれば、あの少年はもう戦えない。あそこまで深刻なダメージを負った人間など、|一方通行《アクセラレータ》なら|一撃《いちげき》で粉砕する事ができるはずだ。  直接戦うのが|嫌《いや》なら、|美琴《みこと》と|妹達《シスターズ》を殺して暴風と|高電離気体《プラズマ》の主導権を取り返してからでも良い。あの少年より、一方通行の方が妹達にずっと近い所に立っているのだから。  冷静に対処すれば簡単に勝てる、と理性は歌っていた。  けれど、それ以外の何かが、アレに背中を見せる事を危険視していた。  体の隅々が、|軋《きし》んだような危険信号を発していた。  常人ならば、それは痛みによる恐怖だと処理する事ができただろう。 「|面白《おもしれ》ェよ、オマエ————」  |一方通行《アクセラレータ》は|拳《こぶし》を握る。 「—————最っ高に面白ェぞ、オマエ!」  |上条《かみじよう》は、ボロボロの体を動かして一歩前へ進む。  少しでも体を動かすだけで、体の中から|全《すべ》ての血が蒸発してしまうような気がした。ちょっとでも何かを考えるだけで、意識が飛んでしまいそうな気がした。  それでも、上条は前へ。  意識が|朦朧《もうろう》としている上条は、今の状況を正しく理解できていない。どうして暴風が吹いているのか、|高電離気体《プラズマ》が消えたのは|何故《なぜ》なのか、自分はどういう理屈で生き延びたのか。そういった大事な事が意識からすっぽ抜けるほどに、心はもうボロボロだった。  それでも、たった一つ。  視界の先で、|一方通行《アクセラレータ》が|御坂《みさか》妹を殺そうとしているのが見えた。  御坂妹の|盾《たて》になるように、美琴が間に割って入るのが、見えたから。  それだけ分かれば、十分だった。  立ち上がる理由としては、十二分だった。 「|面白《おもしれ》ェよ、オマエ——————」  |一方通行《アクセラレータ》の声が聞こえた。 「——————最っ高に面白ェぞ、オマエ!」  そうして、夜空に|吼《ほ》えるように絶叫した|一方通行《アクセラレータ》は、|上条当麻《かみじようとうま》を|撃破《げきは》するために|拳《こぶし》を握って駆け出した。例の、地面を|蹴《け》る足の力の『向き』を変更した、砲弾じみた速度であっという間に距離を縮めてくる。ありがたい、と上条は思った。向こうから近づいてきてくれるなら、それに越した事はない。今の上条のボロボロの体では、おそらく|一方通行《アクセラレータ》の元まで|辿《たど》り着く前に倒れてしまっていただろうから。  上条当麻には、何の力もない。  もうその体には、自分の足で立って歩くだけの力も、自分の舌で言葉を|紡《つむ》ぐだけの力も、自分の頭で何かを考えるだけの力も、———そんなわずかな体力さえも、残されていない。  それでも、上条は右手を握る。  握る。  視線を上げる。   |一方通行《アクセラレータ》は、弾丸のような速度で|真《ま》っ|直《す》ぐに上条当麻の|懐《ふところ》へと飛び込んできた。  右の苦手、左の毒手。  共に触れただけで人を殺す|一方通行《アクセラレータ》の両の手が、上条の顔面へと|襲《おそ》いかかる。  |瞬間《しゆんかん》、時間が止まった。  体に残る、絞りカスのような体力の|全《すべ》てを注ぎ込んで、上条は頭を振り回すように身を低く沈めた。右の苦手が|虚《むな》しく頭上を通り過ぎ、追い討ちをかける左の毒手を上条は右手で払い|除《の》ける。 「歯を食いしばれよ、|最強《さいじやく》——————」  二重の必殺を封殺され、心臓を凍らせた|一方通行《アクセラレータ》に上条は言う。  密着するほどの超至近距離で、|獣《けもの》のように|獰猛《どうもう》に笑い、 「—————|俺《おれ》の|最弱《さいきよう》は、ちっとばっか|響《ひび》くぞ」  瞬間。  上条当麻の右手の拳が、|一方通行《アクセラレータ》の顔面へと突き刺さった。  その|華奢《きやしや》な白い体が勢い良く|砂利《じやり》の敷かれた地面へ|叩《たた》きつけられ、乱暴に手足を投げ出しながらゴロゴロと転がっていった。 [#改ページ]    終 章 オンリーワン ID_Not_Found  |上条《かみじよう》が目を覚ますと、そこは暗い病室だった。  |麻酔《ますい》が効いているせいか、|唇《くちびる》の辺りにおかしな感触を感じながらも、上条は目だけを動かして辺りを見回した。お決まりの個室で、今はどうやら真夜中らしい。ただ弱い冷房の音だけが静寂の病室に|響《ひび》き渡る。着替えとかお見舞いの果物とかが置いていない所を見ると、まだ病院に運ばれてからそれほど時間は|経《た》っていないらしい。病室にあるモノと言えばベッドの横の|椅子《いす》にひっそりと座っている|御坂《みさか》妹ぐらいだし 「はい!?」  上条は思わず飛び上がりそうになったが、麻酔の効いた体はピクリとも動かなかった。  相変わらずな御坂妹の体のあちこちには包帯が巻かれていた。それは良いのだが、みー、という黒猫の鳴き声が聞こえた。角度的に上条の位置からは見えないが、どうもベッドの下に|潜《もぐ》り込んで丸くなっているようだ。  そしてさらに、御坂妹は上条の手を両手で包むように握っていた。  本当にどうでも良いのだが、御坂妹は自分の両手を胸元に引き寄せていたため、何か上条の手が|膨《ふく》らみに触れるか触れないかの境界線まで持っていかれていた。 「み、み、みみみみさか、さん? あれ、おかしいな。何でこんなハッピーなイベントが起きてるんでせう? そんなフラグを立てた覚えは|皆無《かいむ》なんですけどーっ!」  上条の叫び声に、ベッド下の黒猫が|驚《おどろ》いて、みぎやっ、という鳴き声をあげた。 「……、相も変わらず支離滅裂な会話ですが、念のために伝えておくと手を握ってきたのはあなたの方です、とミサカは分かりやすい現代カナ|遣《づか》いで語ります」 「ウソだ! こんな死にかけになって全身麻酔打たれてるってのに、それでも勝手に手がオンナノコのムネに向かってしまうほどの欲求不満だなんて、そんなのウソだーっ!」  うわあ! と上条は頭を抱えたくなるが当然、体は動かない。  御坂妹は『?』と無表情な目で上条の狂態を眺めた後、 「あなたが行ったのはミサカの手を握ったところまでです、とミサカは補足説明します。この位置まで手を持ってきたのはミサカの意思ですので、あなたに非がある事ではありませんが、とミサカは答えます」 「……、ひめ。なにゆえにこのようなことを?」 「単に生体電気の流れからあなたの脳波と心拍数を計測していただけですが、とミサカは返答します。特に性的な意味は含みません」  せっ!? と|上条《かみじよう》の呼吸が止まりそうになるが、その時ふと気づいた。 (あれ? って事は、触れてる? この手は今触れてるの? |麻酔《ますい》のせいで何も感じないんですけど! うわちくしょう指先一本動かせないし! く、そ、うおおおおおおおおお!) 「ち、ちくしょう……何たる不幸……っ!!」 「あなたの言語中枢には異常が見られませんか、とミサカは不安要素を述べてみます」  |御坂《みさか》妹は相変わらず無表情なままだった。  黒猫がベッドの下で眠たそうに、みーと鳴いた。  上条は|無駄《むだ》な努力をする事を|諦《あきら》めて、改めて御坂妹の顔を見る。 「ま、お互い何とか帰ってこれましたなー」  上条は茶化したように言ったが、込み上げるものは確かにあった。というか、なければ困る。それでは一体何のために死にかけたのか良く分からない。 「それについてなのですが、とミサカは答えます」御坂妹は黒猫を|撫《な》でたまま、「ミサカは|未《ま》だ、あなたと同じ世界に帰る事はできません、と正直に告げます」  上条はビクリと身を|震《ふる》わせた。まさかまだ『実験』が続いているのか。 「いえ、そうではなく。『実験』は|一方通行《アクセラレータ》の敗北と共に中止に向かう事が決定したようです、とミサカは|懇切丁寧《こんせつていねい》に報告します」御坂妹は、そこで|一瞬黙《いつしゆんだま》ってから、「ミサカが問題にしているのは、ミサカの体の事です、とミサカは説明します」 「からだ?」 「はい。元々ミサカの体はお|姉様《オリジナル》の体細胞から作られたクローンであり、そこへさらに様々な薬品を投与する事で急速に成長を促した個体です、とミサカは説明します。よって、ただでさえ寿命の短い体細胞クローンがさらに短命になっているのです、と言って分かりますかとミサカは聞いてみます」 「……、」  上条は、絶句した。  だって、それはあんまりだ。せっかくみんなで力を合わせて地獄から抜け出したって言うのに、少女の寿命は元々限られていて、何を選んでどう進んだ所で、みんなと|一緒《いつしよ》にはいられなかっただなんて。  少女はそれでも泣き言一つ言わずに戦って、  結局どれだけ頑張っても、少女の手に残るものは何もないだなんて。 「だから一時的に研究施設の世話になって個体を調整する必要があるのですが———と、聞いてますか、とミサカはあなたを|睨《にら》みつけます」 「は? 調整?」 「はい。急速な成長を促すホルモンバランスを整え、細胞核の分裂速度を調整する事である程度の寿命を回復させる事ができます、とミサカは答えます。……もしもし? あなたはひょっとしてここで物語が終わると勝手に解釈していませんか、とミサカは問い|質《ただ》します」 「調整って、治るの?」 「……、何か、言外に治るはずないだろうと言われているような気がするのですが、とミサカは|不機嫌《ふきげん》になります」  と、ベッドの下の黒猫がみーと鳴いた。  |御坂《みさか》妹はちょっと|脅《おび》える黒猫を拾い上げると、それでは、と言ってドアへ向かう。 「あ、待てよ。もう行っちまうのか?」 「|大丈夫《だいじようぶ》」御坂妹は振り返らず、「すぐに会えます、とミサカはここに宣言します」  そっか、と言って|上条《かみじよう》は目を閉じた。  それが良い。特別な約束や何かを残しては、まるでもう二度と会えないような気分になる。すぐに会えるならば、本当にそう信じているならば、いつものように何でもない風に別れた方が『もっともらしい』。  物語はここで終わった訳ではない。  いつか今日の日が何でもない思い出になるぐらい、これから先も続いていくのだから。  目を閉じた|暗闇《くらやみ》の中、ドアが閉まる音が聞こえた。  薬によって作られた眠気が|襲《おそ》いかかってくる。  それでも、いつの日か必ず再会できるその時を夢見て、上条は笑っていた。  次に目が覚めると、もう病室の夜は明けていた。 「あ、起きた?」  そんな事を言っているのは御坂|美琴《みこと》だった。その顔には疲労の色が濃く現れていたが、それでも彼女は笑っていた。 「ほい、お見舞いのクッキー。デパートの地下でなんか高そうなの選んできたから、そこそこ|美味《おい》しいんじゃないかしら? 後で感想聞かせなさいよ、まずかったらもう二度とあそこの店は使わない事にするから」 「む。クッキーというなら手製がベストですな」 「……。アンタ、私にどんなキャラ期待してんのよ?」 「いやいや。|敢《あ》えて不器用なキャラが不器用なりに頑張ってみたボロボロクッキーっていうのがね、分っかんねーかなあ?」 「だからナニ期待してんのよアンタは!」  上条と美琴はぎゃあぎゃあ|騒《さわ》ぎながらいつもの時間を過ごした。いつもの時間にいつもの世界に立っている事が、上条は|嬉《うれ》しかった。 「あ、そうだ。夜中に御坂妹がやってきたんだけどさ」  上条は昨日の夜にあった出来事を美琴に話した。御坂妹は自分の体質を直すために|他《ほか》の研究機関の世話になる事、そしていつか、また上条の元に戻ってくると約束した事。 「そっか」  |美琴《みこと》は、それだけ言った。  何か大切なモノを見守るように目を細めて、けれどどこか|翳《かげ》りのある|瞳《ひとみ》を浮かべて。  美琴は、確かに『実験』を止める事ができた。  そして、一万人近い|妹達《シスターズ》の命を救う事ができた。  しかし、それ以外の|妹達《シスターズ》の命を救う事はできなかった。  美琴が不用意に提供したDNAマップのせいで、二万人もの|妹達《シスターズ》を、殺されるためだけに生み出してしまった。その事実は、これから一生美琴の背中に重くのしかかる事だろう。|誰《だれ》もその事を責めなくても、世界中の誰もがその事を許しても、きっと彼女自身が一生背負って歩いていくだろう。 「けどさ、」  |上条《かみじよう》は|呟《つぶや》くと、美琴は|黙《だま》って上条の顔を見た。  まるで知らない街に取り残された子供のような瞳を、上条は見ていられなかった。 「お前がDNAマップを提供しなければ、そもそも|妹達《シスターズ》は生まれてくる事もできなかったんだ。あの『実験』は確かに色々間違ってたけどさ、|妹達《シスターズ》が生まれてきた事だけは、きっとお前は|誇《ほこ》るべきなんだと思う」  美琴は、しばらく黙っていた。  やがて、ポツリと泣き出しそうな子供みたいな声で、言った。 「……、私のせいで、一万人以上の|妹達《シスターズ》が殺されちゃったのに?」  それでもだよ、と上条は答えた。  苦しい事に対して苦しいと言って。|辛《つら》い事に辛いと思って。そんな、誰にでもできる当たり前の事だって、生まれてこなければ絶対にできない事なんだから。 「だから、|妹達《シスターズ》はきっとお前の事を恨んでない。あの『実験』では色々|歪《ゆが》んだ所があったけど、それでも自分が生まれてきた事だけは、きっとお前に感謝してたと思う」  上条の言葉に、美琴は息を|呑《の》んだ。  そんな彼女の顔を見て、上条は|麻酔《ますい》のかかった顔で小さく笑いかけた。 「だからお前は笑って良いんだよ。|妹達《シスターズ》は絶対に、お前がたった一人で|塞《ふさ》ぎ込む事なんか期待してないから。お前が守りたかった|妹達《シスターズ》ってのは、自分の傷の痛みを他人に押し付けて満足するような、そんなちっぽけな連中じゃねーんだろ?」  次に目が覚めると、時間は三時のオヤツの時間だった。  だが、上条は美琴にもらったクッキーを食べる事はできなかった。  超至近距離で、|覗《のぞ》き込むようにインデックスがベッドの上の上条を|睨《にら》んでいたからだ。 「とうま、何か言う事は?」 「……………………………………………………………………………えっと、おはよう?」  ボケた|瞬間《しゆんかん》に|上条《かみじよう》は頭を丸かじりされた。上条の体がスタンガンでも浴びたようにビクンビクンとベッドの上を跳ね回る。インデックスがどれだけ|殺《や》る気マンマンかと言うと、思わず上条の口から|尻尾《しつぱ》を踏まれた猫みたいな『ぎにゃあ!』という悲鳴が|迸《ほとばし》るほどである。 「待て! 待って! 今回はシャレや冗談では済まない傷なんだって! っつーかテメェは家主さんに対する心配とか少しは—————」 「心配したもん!」  上条の言葉を|遮《さえぎ》るように、インデックスは叫んだ。  意地になった子供みたいな叫び声に、上条は思わず息を|呑《の》んだ。 「……。心配、したもん」  もう一度、インデックスは重ねて言った。  上条の頭を|噛《か》む口を離し、|枕《まくら》でも抱くようにインデックスは上条の頭に両手を回す。  上条は、少しだけ考えた。  立場が逆だったら、どう思っていただろう、と。  上条の知らない所でインデックスが一人|無茶《むちや》をして、病院に運び込まれたら。相談もされず、一人のうのうと平和の中にいた自分をどれだけ責めるだろうか、と。  ごめん、と上条は一言だけ言った。  良いんだよ、とインデックスは自分の腕の中から上条の頭を離して笑った。  上条とインデックスの、決定的な違い。  彼女はここで一方的に怒るのではなく、笑う事ができる人間だった。 「それで。とうまは今回も今回も今回も一人で問題抱えていたんだね。少しは相談とかしてくれないといい加減に本気で説教しなくちゃならないかも」  あっはっは、と上条は笑ってごまかした。  それを言うなら|記憶喪失《きおくそうしつ》だっていう事も隠しているんだし。 「ふう。ま、あんまり言及しても仕方がないから良いんだけどね。それで結局、とうまは何のために戦ってたの?」  うん? と上条は一度だけインデックスの言葉を確かめて、それから答えた。 「自分のためだろ」  こうして今日もいつもの日常が始まる。  過去は振り返らず、上条|当麻《とコつま》はいつもの道を歩いていく。  その先に、|御坂《みさか》妹と共に抱いた夢があれば良いし、なければないでも構わない。  それならば、再会した御坂妹がびっくりするほど幸せな未来があれば良いだけだから。[#改ページ] あとがき  一巻からご購人されている皆様はお久しぶり、  これを機会に三冊まとめ買いされた|貴方《あなた》は初めまして&本当にありがとうございます。  |鎌池和馬《かまちかずま》です。  ……、えー、本書は『とある魔術[#「魔術」に傍点]の禁書目録[#「禁書目録」に傍点]』です。はい、本書読了後の貴方はお|腹《なか》を抱えて笑ってやってください。かつてこれほどまでに壮大(かつ無意味)なトリックがあっただろうか、という感じです。いきなりあとがきから読んで何のこっちゃとお思いの貴方は試しに本文をお読みください。それで|全《すべ》て解決します。  しかし本を投げる前にちょっと言い訳を聞いてやってください。実は本書、|魔術《まじゆつ》について触れている箇所がいくつか存在します。一ヶ所は言うまでもなくインデックスのいるシーンですが、実はその他にもちらほらと魔術体系について説明しているくだりがあります。  この『テーマが魔法なのに、魔法という言葉を一切出さない』という手法はエブリディマジックと言うそうです。主に童話などで使われる手法なのですが、今回試験運用してみました。お友達と回し読みして、いくつの魔術トークが隠されているかあれこれ議論していただければ作者|冥利《みようり》に尽きます。  実は鎌池、こういう『別に本文とは関係ないけど、実はこっそり存在する』隠しルールが大好きな|法則狂い《ルールジヤンキー》だったりします。  実生活で挙げてみれば、ISBNコードの解読とか。  本書の裏表紙には『ISBN』というアルファベットとそこに続く番号があると思います。これ、何となく商品名を示しているんだろうなという事は分かっていても、真剣に数字の意味を考えている人は少ないかと思います。  試しに見てみると、拙作『とある魔術の|禁書目録《インデツクス》(一巻)』は4-8402-2658-X。これだけではさっぱりですが、|他《ほか》の作品と比較してみましょう。|鈴木鈴《すずきすず》先生の『海辺のウサギ』は|4-8402-26《・・・・・・・・・》31-8です。おや。4-8402-26さらに鎌池と同月デビューの|水瀬葉月《みなせはづき》先生の『結界師のフーガ』は4-8402-2659-8。なんと鎌池の4-8402-2658-X比べると一字違いです。  こうなると4-8402-26が『|電撃《でんげき》文庫』を差していて、その後の数字は出版順なのかな? と思います。ですが、|葉山透《はやまとおる》先生の『9S(一巻)』は4-8402-|24《・・》61-7。おや? 先のモノだと、ここは26のはずですが。  さらに調べてみると、|高畑京一郎《たかはたきよういちろう》先生の『HHO(01-03)』は4-8402-|24《・・》14-5。やはり24です。この24の二作は二〇〇三年発売のもので、鎌池等の26はは二〇〇四年発売です。そうなるとこの二桁はどうも年号を示しているような気がします。  一年置きなのに24から26へ飛んでいるのは、おそらく後の下二桁が『発売したタイトルの数』だからでしょう。|電撃《でんげき》文庫は月に一〇冊前後の本を発売するため、年聞の発売タイトル数は一〇〇〜二〇〇の間で落ち着きます。24と26が一つ飛ばしになっているのは、発売タイトルが三桁に突入した時のために25をクッションにしているのかと思われます。  ……と、ここまで何か自信満々で書いている|鎌池《かまち》ですが、おそらく正答ではありません。むしろ大ポカしているのに気づいていない可能性の方が高いです。けれど、鎌池にとって重要なのは『正しい答えを見つける事』ではなく『あれこれルールを想像して楽しむ事』なのでこれでオッケーなのです。  以上の文を読んで、何となく興味を持って裏表紙を見てしまった|貴方《あなた》には、バーコードの下にある JANコードという数字を調べてみる事をお|勧《すす》めします。どうやらこちらもこちらで一定のルールが見え隠れしていますので、|暇潰《ひまつぶ》しには最適かと。  さて、目下鎌池が気になるルールは、電撃文庫の背表紙です。どうも作家さんによって色分けされているようですが、この色分けのルールは何なんでしょう?  一。色彩心理学に基づく確かなチョイス  ニ。デビュー順に配色のローテーションが決まっている  三。編集さんの気分次第  色々考えつつも、こっそり『二』と踏んでいる鎌池ですが、皆様はいかがでしょうか? 担当の三木《みき》さんとイラストの灰村《はいむら》キヨタカさんには多大な感謝を。穴だらけどころか蜂《はち》の巣状態の拙作に彩りを与えてくれるのは、間違いなくこのお二方です。鎌池一人では|両翼《りようよく》をもがれた小鳥状態なので、ぜひぜひ今後とも仲良くしてやってください。  そして本書を手に取ってくださった貴方に絶大な感謝を。鎌池が今この場に立っていられるのは間違いなく貴方のおかげです。  それでは、本書がいつまでも貴方の本棚の片隅に残る事を祈りつつ、  それが貴方の大切な思い出の風景の中に残る事を願い、  本日は、この辺りで筆を置かせていただきます。  ニ万人の|妹達《シスターズ》……こっそり最多記録更新?[#地付き]鎌池和馬 [#改ページ] とある魔術の禁書目録3 鎌池和馬 発 行 2004年9月25日 初版発行 著 者 鎌池和馬 発行者 佐藤辰男 発行所 株式会礼メディアワークス 平成十八年十月二十三日 入力・校正 にゃ?